(当記事は、あくまでも一般論です。特定の主義主張を貶める意図はありません)
はいどうも、カワウソだよ。
最近ツイッターで、「目覚めた人」を自称する人がふえているように思う。いわゆる『陰謀論』と扱われている主張をする人に多い。
しかし、ではそういう「目覚めた」人たちの主張はというと、論理的整合性もない、はっきり言ってきわめて幼稚なもののようだ。「寝ぼけたこと言うな」という場合の「寝ぼけたこと」がこれに該当するだろう。
今回は、なぜ「目覚めた」と自称する人のツイートはたいてい寝ぼけているのか考えていこう。
『目覚めた』の自称は楽
目覚めたといっておけばなんとなくすごい
まず、目覚めたと自称すると、「なんかすごそうだ」と思って寄ってくる人がいる。「目覚めた人(仏陀)」と呼ばれたお釈迦様を想起するからだろう。
しかし、当然のことながら、釈迦は「目覚めた」と自称したから仏教を広められたわけではない。瞑想し、悟りを得たから仏教の考えに至ったわけだ。
では、自称「目覚めた人」は悟っているのだろうか。ほとんどすべての場合、否だ。
そもそも、「目覚めた」というのは、倫理的なところに関するものだ。人々が当然だと思っている倫理観・宗教観を批判的にみ、新しい答えを見出すのが「目覚めた」とか「悟った」とかの本来の意味だろう。
しかし、「目覚めた」と自称する人が主張するのは、陰謀論的なもの、その中には自然科学の否定も含まれているのだけれど、人々の倫理観を覆すものではない。本来の使われ方とは外れたものだ。科学的根拠というものは瞑想でどうにかなるものではない。
しかし、「目覚めた」という言葉を使うことで、いかにも釈迦であるかのように思わせる、あるいはそう思い込む。言ってしまえば、仏様という虎の威を借る狐だ。
自称「目覚めた人」は人を見下している
「周りは寝ぼけている!」
また、「目覚めた」と自称する人は、裏を返せば、他人は寝ぼけているといっているのと同義だ。自分のほうが賢いとか、よくものを知っているとか思っていないと、そう自称することはできない。
先ほどものべたけれど、道徳ならそう主張することもできる。実際、歴史をみてみると日本の仏僧の中にもそういう行動をとった人はいるようだ。むしろそういう強い思いを持たなくてはダメなところもあるかもしれない。
ただ、科学や政治においては、「目覚めた」という感覚は不要だ。事実は事実だし、論理的正しさが「目覚め」によって変わることはない。あくまでも理性的に考えればいい。人と視点を変えることが必要なケースはあるけれど、少なくとも「目覚めた」という自称は不要だ。
そんな不要な感覚を用いて啓蒙しようとしているのであれば、それは別の要素がある。もしそういうのに気づいていないのだとすれば、「寝ぼけている」と判断されても仕方ないんじゃないかな。
今回はここまでだよ。みんなは、「目覚めた」なんて自称しないようにね(^●ω●^)