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【合理的云々以前の問題】教養と積読の共通点とその必要性を考えてみた【人間として大切】

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はいどうも、カワウソだよ。

この前ツイッターで、「積読はいらない」という旨のツイートをちらっと見た。

どうも、本は買いたいときに買えばいいという主張のようだ。一見合理的ではあるね。

 

で、これと似たようなものがあるのに気付いた。「教養」だ。

大学なんかでも教養主義はすでにほとんど陥落してしまってて、どんどん実利主義に向かっている。早稲田の理工学部では第二外国語が必修でない上、単位も1単位しかもらえない(通常は2単位)。第二外国語がだいぶ軽視されているのだけれど、それもこの実利主義の一環だろう(なお僕はスペイン語と中国語の授業をとっていた)。

教養もまた、合理的な考えのもとに不要論が叫ばれる概念だ。

この、積読と教養、積読は行為(正確には「読まない」という否定行為)であり教養は概念的なことだという違いはあるのだけれど、結構共通点がある。むしろ、根本的なところは同じなのではないかとさえ思う。

まず、うえで書いたように、不要論が主張されるということ。なるほど、本は「買いたいときに買えばいい」し、知識も「必要な時に得ればいい」という考えはうなずける。合理的に考えれば、確かに両方いらない。

 

しかし、「それでもなお必要」だ。これもまた、積読と教養、この2つに共通する点だと思う。

今回は、教養と積読の必要性を、それらの共通点を探ることで考えていこう。

教養と積読は、ともに「タイミング」が大事だ

積読は「タイミング」をつかむためにある

共通点として挙げたいものの一つは、「タイミング」だ。

まず積読に関して。積読している本は、読みたいときに読める。これは書店にしかない本では無理なことだ。

本好きな人ならわかることだけど、本というのは「今読みたい」というタイミングがある。そして、そのタイミングは一瞬で消えてしまう。

だから、たとえ書店でいい本に出くわして買っても、それを家に持ち帰って読もうとすると、その気が失せる。リアルの本だけではない。電子書籍も同じで、購入ボタンをワンクリックするだけでちょっと読む気が消えてしまう。そういう時間的ロスをなくすために、積読は非常にためになる。

 

それだけではない。面白いと思って買ったはいいが、実際は面白くなく、読むのをやめてしまうというケースもある。そういう本はさっさと売ったり捨てたりするのが一般的だろうけど、そうする前に、「もう一度読みたい」と思うときがくることがある。それで読んでみたら意外と面白かった、ということも少なくない。

おそらく、読み手側の状態は日々変化する。そして、ある瞬間になって「この本が読みたい」と切望する。この瞬間は、積読をしていないと来ないんじゃないかな。

 

教養が人生で活きる「タイミング」

教養も同じだ。幅広い分野の基礎的なところを学んでおくと、ある時になって「学びたい」という欲がわく。いろんなところに種をまいておいて、芽が出るまで待つ感じだ。

教養とは少し違うかもしれないけれど、僕は専門外の学習もそこそこやっていた。それが、大学時代に活きた。

僕は物理を学んでいたんだけど、ある時興味を失った。物理というのは冷酷な学問で、いったん興味が失せるとどんどんおいて行かれる。

しかし、救いがあった。僕の大学には、理工学部であっても、文系の研究をしつつ、それで理学士や工学士の学士号を得られる制度がある。大変お世話になったけれど、後々考えてみるとなかなかクレイジーな制度だ。

僕はそれを利用した。それで、何とか卒業した。理系学部に入学し、文系の研究をして卒業した今、再び理系の分野、地球科学に興味を抱き始めた(僕がこのことを動画で投稿した数日後、アメリカの真鍋博士が地球科学の分野の功績でノーベル物理学賞受賞することが決まった)。

もし、僕が文系の知識も興味もなかったら、正直詰んでた。本気で、卒業できていたかも怪しいと思っている。

僕のは特殊なケースだとしても、人間、今まで興味を抱いてきたものが突然どうでもよくなる時が来るかもしれない。

そんな時、専攻分野以外の知識が何もなかったら、ほかの事に関心を持つことは結構ハードルの高いことになるんじゃないだろうか。ここで、例えば心理学を研究しようにも、何にも知らないところから始めるのはハードルが高い。その障壁を乗り越えられないままあきらめてしまう恐れもある。

やはり、いろんなことに興味をもち、基礎的なことを学んでおくことは、人生のいざというとき役に立つのではないかと思うよ。

 

 

教養も積読も、どちらも「発酵」する

読めない本は時間をおいて発酵させるべし

また、発酵というのも一つのキーワードだ。すなわち、時間を経ることで、オリジナルとは違ったものにするんだ。

書籍について書けば、ずっと家においておくことで、本の「性格が変わる」。スピリチュアルな話かもしれないけれど、わりと信じてる。おそらく、読み手(置き手)側の意識の変化による事象なのだろうけれど、以下、こっちのほうが楽しそうだから「本の性格が変わる」と表現するよ。

ちょっと極端かもしれないけど、たとえば、普段すごく不真面目な人が、いきなりニーチェを読もうとしても読めるものではない。それは、内容の硬さもそうだけれど、例えば「ニーチェのあの気難しい顔が生理的に受け付けない」というのもある。

そこで、まずはニーチェを自宅の雰囲気に変えることが求められる。不真面目な家にしばらくいさせて、ニーチェを不真面目にさせるんだ。

 

しかし、本の雰囲気と自宅の雰囲気が離れていればいるほど、その本が自宅に慣れるには時間がかかる。そのために、積読をしておいて、頃合いを待つんだ。

「読めない本」を「読める本」にする、いわば、ランクというか、重苦しさみたいなものを取り外すために、本を『発酵』させる必要があると思うよ。

 

教養は「個性」をもってこそ

教養も同じく、身に着けてから活用するまでに「時間」が必要だ。

同じ知識を得ても、時間がたてば、人によって覚えている箇所が違ってくる。あるいは、知識は同じでも、その知識の解釈は人それぞれだ。

デカルトの方法序説を読んだとして、「われ思う、ゆえにわれあり」の部分だけ覚えている人もいれば、その発想に至った過程を覚えている人もいるだろう。あるいは、デカルトが在籍していた大学が当時の世界で最大の知の宝庫だったということが記憶に残っているひとがいるかもしれないし、最終章の「神の存在証明」がなぜか頭に残っている人もいるだろう。ちなみに僕は、「極端よりも中庸の意見を選んだほうが、仮に間違っていても大きく外れることはない」というのを合理的に説明している部分が強く記憶に残っている。仏教の教えと共通するところがあると思ったよ。

そういう、何か知識を得て、しばらくたったころ、自分の頭の中にあるもの、それこそが教養だ。

これは一般的な教養の定義とは大きく異なるだろうけれど、「生きる糧になる」という原義に基づけば、そう離れたものではないだろう。

このように、本を読んで、それを「要約」する過程で、独自性が出てくる。その過程を僕は『発酵』と呼んでいる。

 

教養も積読も、合理性だけでは説明できない

睡眠薬さえあればベッドは不要か

積読も教養も、どちらも結局は「個性」につながる。

合理的というのは必要な考え方だけど、それだけでは人間的なものにならない。

僕は、5年以上前にどこかで読んだブログ記事の内容がいまだに忘れられない。

内容は、日本語不要論の主張だった。「公用語を日本語にする理由がない。英語だけで暮らしたところでデメリットはない」というものだった。

これを否定する合理的な理由はない。文化破壊という反論があるだろうが、それは結局感情論にすぎないといわれれば更なる反論は難しい。いや、正確に言えば面倒臭い。

ただし、合理的なことが必ずしもすべてではない。

確かに、合理的な考えというのは非常に重要だ。しかし、それは、例えば「ここから海に行くための最短ルート」を知るのに必要な道具だ。「海に行きたい」という欲望を起こす、あるいは、ここから海に車で行く際、そのドライブを楽しむといったことはできない。

あるいは、「睡眠薬さえあれば硬い床の上でも十分寝れるのだから、ふかふかのベッドはいらない」と主張するようなものだ。

合理性だけでは説明できない、どこか人間的なもの、それを涵養するために、積読や教養といったのは存在するんじゃないかと思うよ。

 

今回はここまでだよ(^●ω●^)

 

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