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『頭がいい人は話が分かりやすい』説についてメンサ会員が考える

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はいどうも、カワウソだよ。

頭がいい人は説明がうまい」という意見を目にする。

僕自身、当ブログの記事について「頭がいい人はすごくわかりやすいんだね」と感想をいただいたことがある。

ただ、正直なところ、これは間違いだと思ってる。

 

むしろ説明が下手なケースも多い。

実際、例えば官僚は(すくなくとも勉強の面では)めちゃくちゃ頭がいいにも関わらず、彼らが書いた国会答弁は分かりやすいとは言えない。

あるいは、メンサ会員の著書が『内容が薄い』と評されるのもまた、頭の良さと説明のうまさに関係がないことを表していると思う。

今回は、頭がいいことと、説明の上手下手の関係について考えていこう。

 

『頭がいい人は話が分かりやすい』は罠である

なぜ、頭がいい人は分かりやすいと思われるのか

そもそもなんだけど、なぜ頭がいい人が説明がうまいと思われているのだろうか。

それを考えるにおいて、思い浮かぶのが『頭がよくて、かつ説明がうまい人』だ。

具体的に述べると、池上彰さんがその例だろう。

世間ではいろいろ言われているかもしれないが、なんだかんだで彼の解説は分かりやすいし、何でも知っている感がある。

 

最近だと、ユーチューバーとして活躍している中田敦彦さんやメンタリストのDaiGoさん、林修さんもその一例かもしれない。

やはりテレビ出身というのもあるのか、わかりやすい。

Twitterで知識がある人からすると、二人とも間違った情報を提供することがあると指摘されているけれど、彼らの持つキレの良さは、知識がない人から見れば頭がいいと思われかねない。

 

しかし、彼らは単に『翻訳』がうまいというだけに過ぎない。

持っている情報を、ちょっとだけレベルを落としたり、断定すべきでないところを断定したりしてて言い換えているだけだ。

では、なぜそういう人が『頭がいい』と思われているのか。

それは、視聴者が理解できるからだ。

 

例えば、政治や経済の話で言えば、多くの人は基礎的なところさえわかっていない。だからそれを説明されないまま『マクロ経済スライド』とかいわれてもピンとこない。

だから、「何言っているのかよくわからない」となる。テレビもさして説明しないから、モリカケとか桜とかのスキャンダルの方を放送する(もちろんそれらも重大な問題なのだけれど)。テレビや新聞があまり報道しないから、余計にわからなくなる。

しかし、池上彰さんはそういう基礎、というか初歩の部分をきっちりと教えてくれる。だから、「政治家のわけわからない話を全部理解しておしえてくれる。すごい!」となるんじゃないかな。

あくまで観察に基づく推測でしかないんだけど、視聴者が分かるレベルまでかみ砕いてくれるから、頭がいいと認識されるんじゃないかな。

 

説明が下手なのはある意味で『コミュ障』

池上彰さんは、新聞を読んでいて「この記事は普通の人にはわかりにくいだろう」と思うことがあるらしい。それをむしろシメシメと思っているそうなのだけれど、そういう『理解しにくい』新聞記事ができてしまうのはちょっと問題だと思う。新聞がもはや教養人というか、一般市民のためのモノではなくなってきているんじゃないか。

新聞の意義についてはここでは語らないけれども、新聞記事を書いている人は池上さんと比べて『コミュ障』なんじゃないかと思う。

コミュ障といっても、新聞記者が池上さんより話が下手だというわけではない。

ただ、話が理解されないのは、周りがどの程度の知識を持っていてどの程度理解できるかをわきまえていないことの表れではないかな。

 

分かりやすさは頭の良さよりも『近似』の能力

頭の良さというよりは要約力の問題

文系(というかニュース全般)における池上彰を理系で例えると、サイエンスライターの竹内薫さんがそれにあたる。

彼らに共通するのは、『だいたいこういう感じですよね』というのを伝えることだ。

本当は全部知ってもらいたいけれど、すべて『正しく』説明しようとするとついていけないだろう。

 

例えば、僕自身は微分とは何か、積分とは何かを理解しているつもりだけど、それを小学生に説明しようとなると、具体的なもので例えたり、「微分とは超薄くスライスすること」だと説明したりする。

こういうのは、厳密に言えば『正しくない』。しかし、概要を知ってもらうには仕方ない。dxとか無限小とか言ったところで理解できる小学生はごくわずかしかいないだろう。

だとすれば、多少雰囲気だけでもわかってもらうためには、正確性を欠いても『近似』しなくてはいけない。

この近似、物理ではよく出てくるものなのだけど、この概念がなければ科学は発展していなかっただろう。

正確性を欠いてでも、『要約』をしたほうが理解されたり、発展させたりするには都合がいいことがあるんだ。

 

知っている人からすると嘘つきに見えて当然かもしれない

逆に、要約は正確性を欠くのだから、細かいところまで知っている人からすると嘘で塗り固められているようにしか見えないだろう。

「振り子の法則」なんてその一例で、振れ幅によって一往復の時間(周期)が変わらないなんて言うのはまやかしだ。

あるいは、今話題のABC理論。僕自身理解しているわけではまったくないのだけれど、ある新聞で「たかだか可算」というところを「そんなに多くない」と書いてあって仰天したことがある。正直僕から見ればフェイクニュースに近いと認識しているのだけど、大学の理系学部で数学を学ばなかった人からすれば「たかだか可算」を丁寧に説明しても理解されない。

だとすれば、正しさを犠牲にして「そんなに多くない」と書いてもいいのではないかと考えたよ。

 

これと同じく、正しさを犠牲にしているわけだから、そりゃあ知っている人からすれば彼らが嘘つきに見えて仕方ない。

正しさと、わかりやすさを併用するのは至難の業なんじゃないかと思ったよ。

 

今回はここまでだよ。

分かりやすさだけに騙されず、自分自身でものを考えるようにしたいね(^●ω●^)

 

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