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なぜ読書を推奨する人は矛盾するのか

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はいどうも、カワウソだよ。

先日、『それでも読書はやめられない』(勢古 浩爾 著)という書籍を読んだよ。

タイトルから予想されるものとは逆に、なんと著者は24歳までは書籍と無縁だったそうなんだ。

 

で、この本の中で何人かの『読書家』を挙げ、批評している。

もちろん読書はいいことだし、それは推奨されるべきものだけれども、一部読書推奨者は、むしろそのやり方がおかしい点が見られる。

今回は、この書籍とつなぎ合わせて、読書をオススメしている著名人の主張における矛盾点・腑に落ちない点を考えていこう。

 

斉藤孝は『浅い』。

『本は読まなければいけない』と主張している人の読書法がテキトーすぎる件

書店に行けば、ほとんど必ず斉藤孝先生の新著が並んでいる。

『東大王』などテレビでも活躍しているのに、その多作ぶりには驚かされる。勉強家の人の中にも、彼の著書のファンは大勢いるだろう。

しかし、僕は、彼が尊敬されるべし程深い何かを持っているとは思わない。そして、『それでも読書はやめられない』の著者・勢古氏もまた彼を批判している。

 

斉藤さんの著書『読書力』の中で、次のように書かれている。

私がひどく怒りを覚えるのは、読書をたっぷりとしてきた人間が、読書など別に絶対にしなければいけないものでもない、などというのを聞いた時だ。こうした無責任な物言いには、腸が煮えくり返る。

(中略)

本は読んでも読まなくてもいいというものではない。読まなければいけないものだ。こう断言したい。

(『読書力』)

斉藤氏は、本を読まなければいけない根拠に「自分を作る最良の方法だから」と書いている。この点を、瀬古氏は根拠が弱いと書いている。

確かに、読書は非常に有用なものだし、瀬古氏もまた過去にそのような旨の本を書いたそうなのだけれど、一般化でできないと思うと書いている。

 

そして、本書を引用して言えば、斉藤孝氏の読書法は『テキトーで幼稚』だ。

斉藤の読書論の特徴は、本は読まなければならないと力むわりには、その読書法がけっこうテキトーで幼稚なことである。第2章でも触れたが、それ以外にも例えば『使える読書』の目次には、「遠心力で読む」だの、「引用するために読む」「外科医的に読む」「負かをかけて『型』で読む」などと、誇らし気にただの思い付きを書いている。

目次だけで判断するのも正直いかがなものかと思うけれど、確かに斉藤氏の読書法(というかネーミング)は、読者をバカにしている感がある。小学生相手かと疑うほどだ。

 

さらに、斉藤氏は「純文学」や「名作」は疑わない一方で、推理小説や歴史小説、エンターテインメントものなどは「乳歯レベルの読書」とバカにしている。

一方で、「読書の幅が狭いと、一つのものを絶対視するようになる。教養があるということは、幅広い読書をし、総合的な判断を下すことができるということだ」とも書いているようだ。

この2つを見ると、斉藤氏自身が純文学や名作を絶対視しているように見える。

何というか、「読書してもこのレベルにしかならない」というのを自ら証明している感じがするよ。

 

『ドラえもん』のエピソードは逆効果じゃないか

また、どの本かは忘れてしまったのだけれど、斉藤孝氏の著書のなかであるエピソードが書かれてあったのを覚えている。

 

とある、名作を数々作り出すプロデューサーが「自分は読書をしない」といった。じゃあ何を読んでいるのかと斉藤氏が尋ねると、「ドラえもんだ。」と相手は答えた。

それを聞いて斉藤氏は納得したらしい。というのも、藤子・F・不二雄先生は図書館に通い詰めていて、その読書経験がドラえもんを作っていたと。

 

この本でも、「とにかく読書をしよう。」って感じの内容で、おそらくその主張の援用として上のエピソードを入れたのだろうけれど、ちょっとどうなのかと思う。

というのも、このプロデューサー自身は読書をしていない。ドラえもんを読んで名作を作り出している。

ここだけ見ると、「難しい本を読まなくても『ドラえもん』を読めばいい」という結論が導かれないだろうか。

 

このエピソードを読んだころから僕は斉藤氏を尊敬しなくなったよ。

読書を義務だ、責務だといっている人がこれでは、正直困るよ。

 

読書を過信する人がたどりつけない場所

読書の限界を知ろう

ほかにも、瀬古氏は何人かの読書家の読書論を斬っている。僕自身そこで斬られている丹波宇一郎氏の読書論を読んだことがあるけれど、ぴんと来なかったところがあり、瀬古氏と共通する部分がある(ただし出口治明氏の読書論には僕はほぼ賛成しており、そこは瀬古氏と異なる)。また、佐藤優氏の読書論を知ると斉藤氏のがずいぶん貧相なものに思えてしまうのも同感だ。

では、なぜ斉藤孝氏のような、読書を推奨するひとの主張が変な方向、本来進むべき方向と真逆ともいえる方向に進んでいるのだろうか。

思うに、読書の限界に気付いていないんじゃないか。

 

哲学者のショーペンハウアーは、著書『読書について』の中で、「読書は、他人にものを考えてもらうことである。」と書いている。

この趣旨は結構誤解されているのだけれど、読書するなと言っているのではなくて、自分の軸で考えなければ意味がないというのが意図するところだ。

なのだけれど、斉藤氏のような、極端というかあまり主張がピンとこない人は、著者に考えてもらいすぎているんじゃないだろうかと思う。

さすがに氏も考えてはいるだろう。氏の好きな論語にも「学びて思わざればすなわちくらし(勉強だけして考えなければ)」というフレーズがある。

ただ、あまりにもその読書量と比べて主張が稚拙なんだ。

 

あるいは、読書論を論ずるには若すぎるのかもしれない。

斉藤孝氏は現在59歳。丹羽宇一郎の81歳や出口治明氏の71歳(いずれも2020/3/27時点の年齢)と比べるとひよっこだ(20代の僕がいうのもなんだが……)

また、氏は同年代の佐藤優氏(60歳)ほどは読書量がない。斉藤氏は多い時で1日10冊読むそうだが、佐藤氏は「平均」月300冊以上、多い月は500冊よむという。はっきり言って、2倍ほど差がある。

評論する側だからなんでも言えるんだけれど、普通に生きていくにおいては十分すぎる読書量だけど、読書論を語るにはあまりにも読書不足なのではないか。

 

斉藤氏に限ったことではないけれど、本に『読まれる』ようになってはいけないと考えている。

その点を入れて、読書と正しく向き合う必要があるのではないかな。

 

今回はここまでだよ。

読書は非常に役立つものではあるけれど、過信しないようにしようね(^●ω●^)

 

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