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僕がブログで『断定』しない理由

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はいどうも、カワウソだよ。

僕はブログを書く退いて意識していることがある。

それは、意見や推測に関しては、なるべく断定的な表現を使わないということだ。

だから、『●●だと思うよ』とか『●●なんじゃないかな』という表現が僕のブログ記事には使われている。

 

ブログの戦略的には、むしろ『●●です』というふうに断定したほうがいいというのをどこかで読んだ記憶があるのだけれど、僕はあえてその逆の戦略を意識している。

今回は、なぜなるべく断定をしないように心がけているのか、書いていくよ。

 

断定は読者に考えさせない

断定すると感情的になりやすい

まず、断定することの特徴を考えていこう。

断定的な文章とそうでない文章の違いの一つは、読み手を感情的にさせやすいかどうかだろう。

感覚的に言えば、断定の文章は『強く』、そうじゃない文章は『弱い』ように感じる。

事実、事実とみなされていることであれば、それを否定することはできないから断定で書いたところでどうってことないけれど、意見や推測であれば、自分と反対する人がいて当然だ。そして、僕はそういう人も大切にしたい。

あくまでも『お気持ち』程度なのだけれど、意見の異なる人とのコミュニケーションを容易にする効果を狙って、なるべく柔らかい表現を使うようにしているよ。

 

今は『正しさ』が揺らいでいる時代

『科学的正しさ』と『政治的正しさ』

「合理的に考えて導き出された結論であれば、それは事実とみなしていいし、したがって断定してもいいのではないか」という意見もあるかもしれない。

確かに、何か議論するのであれば、合理的に考え出された結果生まれた主張は事実として認められてもいいだろう。

しかし、それでも僕は、柔らかい表現を使う。

 

というのも、世の中の『正しさ』そのものが揺らいでいるんだ。

フェイクニュースの存在もそうだけれど、そうじゃない、『正しい』のに『間違っている』ことがたびたび起こっているんだ。

それが、『科学的正しさ』と『政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)』だ。

『科学的正しさ』というのにも定義が色々あるけれど、ここでは岡田斗司夫さんの動画を引用する。

統計的に、男女でIQの差はほとんどないが、男性はIQのばらつきが大きく、女性はIQのばらつきが小さい。

すなわち、女性と比べて男性はIQ130以上の割合も高いがIQ70以下の割合も高い、ということになる。

そしてこの統計を引用して、ハーバード大学の学長が「女性は高度な科学や数学に適していない」と発言し、クビになったんだ。

この学長の発言は、統計的事実から合理的に考えると『科学的に正しい』のだけれど、『男女に差はない』『女性であってもトップになることができる』という『政治的な正しさ』の観点から見ると間違っているわけだ。

 

以下、『科学的正しさ』を事実に基づいて合理的に考えたうえでの正しさ、『政治的正しさ』を道徳的な面に照らし合わせた正しさと定義する。

科学的に考えて『正しい』と判断されるものでも、別の味方をすれば『間違っている』ことになるんだ。

 

『科学的正しさ』と『政治的正しさ』がぶつかるだけではない。『政治的ただしさ』そのものがぶつかることもある。

例えば大学のアファーマティブアクション。アメリカの大学では、黒人や女性は白人男性よりも低い点数で大学に入学できる。

これは、『今まで差別されてきた&されているグループはその分保証を受けるべき』という観点からすると『政治的に正しい』けれど、『入試は平等であるべきで、肌の色や身体的機能で表がが違ってはいけない』という別の観点からすると『政治的に正しくない』。(入試の平等主義に関しては合理的な『科学的正しさ』といえることもあるけれど、平等主義もまた一つの道徳的価値観だととらえ、政治的正しさだと考える)。

あるいは、「いっていいこととわるいことがある」というのも、また『政治的正しさ』だろう。合理的に考えて正しいと判断される『科学的に正しい』ことを何でもかんでも言っていいわけではないのは、その中に『政治的に正しくない』ことがあるからだ。

絶対的な正しさが存在しないから、僕は意見の断定表現をなるべくしないように心がけているよ。

 

『政治的正しさ』は主観の理論武装でしかない

そして、ブログ記事を書いていて、この『政治的正しさ』の面倒臭さを痛いほどに実感している。

というのも、この『政治的正しさ』はつまるところ感情論でしかないんだ。

例えば、僕の理屈っぽい人は論理力に乏しい人だという話。という記事は、ブログ記事の中でも特に多くの批判を頂いている。これは、この記事が『政治的正しさ』に基づく主張であることが関係しているのだと思っている。

言ってしまえば、先に結論があって、それを理論理屈で装備しているんだ。

 

『科学的正しさ』に基づく記事であれば、自分の主観と関係なく同じ結論が出される。周りから『理屈っぽい』といわれた経験のある人を何人か集めて論理思考力テストを実施すればいい(理屈っぽさの定義には主観が入るので、この実験もまた無意味なものになるのだろうけれど)

こういう『社会的に正しい』主張は、先に結論が決まっているので論破のされようがない。どれだけ理論武装したところで主観・感想でしかない。

これが科学的正しさであれば、「元のデータが間違っていました」「計算が間違っていました」といえるのだけれど、社会的に正しいものではこちらが認めない限り絶対負けない。「こういう解釈で言ったんです」というように、しようと思えばいくらでも後付けができる。だからこそ面倒くさい。

「自分と何かで意見が対立する場合たいてい自分のほうが正しい」というとある論客のツイートを拝見したことがあるけれど、社会的な正しさ(『個人的な正しさ』といったほうがいいかもしれない)は、自分が負けない限り絶対に正しい。少なくともその人の中では。

しかし、そういう意固地にはなりたくないから、間違っているところは謝罪したり撤回したりする。

そして、僕の中で正しいと思ったことがほかの人にとって間違っている可能性がある限り、僕は『柔らかい』表現をし続けることにするよ。

 

 

今回はここまでだよ。

よんでくれてありがとうだよ(^●ω●^)

 

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