はいどうも、カワウソだよ。
世の中には天才とか秀才とか呼ばれる人達がいる。
しかし同時に、ここまで、その本当の意味が何かを考えないまま使われてきた言葉もそう多くないだろう。
また、主にマスコミによってやたらと使われ、そのせいで本来持っている価値が低くなっている言葉でもある。
今回は、そんな「天才」と「秀才」の違いを、改めて考えてみるよ。
メンサ会員だけど、高IQ団体に入るメリットはないと思っている
天才・秀才の特徴
天才…考え方・表現の方法が他の人と違う。
まず、天才についてだ。天才の本来持つ意味と正反対に、最も普遍的に使われる言葉であるかもしれない。
この「天才」。「天性の才」と表現されることもあるけれども、これをそのまま解釈すれば「先天的の才能」といえるだろう。
すなわち、「他の人が努力しても獲得できない才能の持ち主」ということだ。
芸術の世界ではこの天才という言葉がよくつかわれるだろう。
有名どころでいえば、ピカソがそうだ。
ピカソのゲルニカや泣く女は、他の人が思いつかないような表現技法で描かれている。
何か特定のカテゴリーに入れるのがおこがましいほどの能力を持っているんだね。
芸術面以外においても、天才の特徴として同じことが言えるだろう。
すなわち、「こう考えればいいんじゃない?」という発想の面において、他の人と完全に違う。
歴史上の人物でいえば、科学者アインシュタインや数学者ラマヌジャンがこのタイプではないかな。
コペルニクス的転回というか、過去の誰も思いつかなかったような考えのできる人が天才なのではないかと思うよ。
あまりにも発想が他人と違うために、他の人からはもはや「わけわからない人」扱いされかねない。
天才が孤独だと言われる一因は、天才が天才であるからということになるかもしれないね。
秀才…発想の方法は「極めて論理的」
かえって秀才。
天才という言葉と比べるとどうも見劣りがするかもしれないけれど、僕は決してそんなことないと思っている。
むしろ、秀才がいないと世の中は成り立たないのではないかとさえ思っている。
秀才の特徴として思うのは、「問題解決能力がきわめて優れている」ということだ。
いわゆる高偏差値エリートがそういう例で、新しく何かをするというよりかは、知識や論理を駆使して最適解を素早く導く能力にたけた人達のことを言うのだと思う。
0から1を作り出すのが天才だとすれば、1を100に発展させるのが秀才という感じだね。
天才と秀才は全くことなる
秀才の最高峰が天才というわけではない
それで、この天才と秀才。なんとなく並列でつかわれがちだけれど、上で書いた定義に従えば全く違う。正反対といっていいくらいだ。
というのも、天才が発想に優れるのに対して、秀才は論理的思考力に優れているんだ。だから、天才だからといって、秀才であるとは限らない。
数学者ラマヌジャンはいろいろな数学理論を書いた。円周率の計算方法や近似式も発表している。しかし、彼は証明をしなかった。なんでも、本人曰く「女神が教えてくれた」らしい。
そのためか、間違った定理もあったという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3
このラマヌジャンのように、誰にも考え着かないような発想をする「天才」ではあっても、それを論理的に説明する能力をもった「秀才」とは言えないような人もいるんだね。
天才と秀才を兼ね備えた人もいる
とはいえ、その逆に、天才かつ秀才な人もいる。
頭脳王・東大王の水上颯さんがそのタイプのように思うよ。
東大医学部に合格できるのだから、問題を解く能力が極めて優れている「秀才」であることは確かだろうけれど、彼がクイズ(特に謎解き)をする際、他の人がしないような、単なる論理的思考とは一味違う観点で考えているようにみえるよ。
もちろん、クイズや入試には模範解答があるから、完全に独特の発想というわけではないのだろうけれど、論理的思考力以外の、多面的に考える力もきわめてすぐれているようにうかがえるよ。
今回はここまでだよ。
まとめると
・天才は発想力が人と違い、秀才は論理的にとらえる能力が優れている。天才と秀才はもつ能力が全く異なるため、天才が必ずしも秀才であるとは限らないが、その両方を兼ね備えた人もいるかもしれない。
日本は和を以て貴しとなす社会といわれているけれども、天才や秀才といった「普通でない人」にとっても生きやすい社会であってほしいね(^●ω●^)
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