はい、どうも。カワウソだよ。
先日、とある小倉唯ファンの人のツイート・DMをめぐってひと悶着が起こった。
というのも、その人(以下H氏とする)はいわゆる出会い厨と呼ばれる存在で女性ファンに対して執拗にからむことで悪名高かったのだけれど、そのナンパの方法が、被害者の方を不快にさせた。
端的に言うと、
キミはファン歴1年だね。俺は唯ちゃんのことを子役時代から10年以上ファンなんだよ。(要約)
というような内容のDMを数々の女性に送っていたそうだ。
被害にあわれた方の言葉を借りると、ファン歴を自慢するような人は残念ながらブロック解除させてもらうとのことだった。
もちろん、小倉唯さんを子役時代から知り、それ以来ファンを続けているのは素晴らしいことだし、そのままファンを続けてほしいよ。
しかし、それを自慢し、ただそのことだけをマウンティングするのは非常に残念に思うよ。
今回は、ファン歴の長さは自慢の材料になり得るのかどうか考えていこう。
ファン歴の長さでマウントをとる人は残念だ
なぜファン歴の長さを自慢するのが『残念』なのか
結論から言おう。
ファン歴の長さを自慢する人ははっきり言って残念だ。
それはなぜかというと、ファン歴の長さというのは逆転不可能だからだ。
H氏の例でいえば、「俺はファン歴10年以上だから偉い」という雰囲気が文面からうかがえたのではないかと推測されるよ。
一方で、例えば僕は小倉唯さんのファンになってから5年ほどでしかない。
となると、僕はどれだけ彼女のことを愛しても、『ファン歴の長さ』という基準でいえば、僕は絶対H氏に勝つことはできない。
もしファン歴の長さが偉さの唯一の基準だとすれば、一回勝負、早い者勝ちの世界となる。
あるいは、例えば現時点で10歳以下の人は、生まれた時点でH氏に負けていることになる。(小倉唯さんはプリキュアの声優もやっていたからあり得ない話では決してない。)
これは、会社でいうと年功序列制に似ているね。
その人の能力によらず、年を重ねるだけで給料が上がる。
しかし、この制度では、無能な上司が大量発生するおそれがある。
同様に、ファン歴が自慢になる世界では、たいして詳しくもない、お金もかけないような人が、『ファン歴が長い』というだけで崇拝されてしまうかもしれないね。
一方で、例えば「この1年でどれだけ小倉唯を愛したか」という『愛の深さ』によって序列が決まる世界であれば、ファン歴の長さにかかわらず、誰でも勝負できる。
これは数値化しにくいけれど、「めっちゃ唯ちゃん好き!」って人が尊敬される世界であれば、たとえ小学生や幼稚園児であっても尊敬される。
逆に、いくらファン歴が長くても、たいして彼女を愛していなければ尊敬されない。
会社でいえば、能力主義だね。
そっちの方が、若い人・まだ生まれていない未来の小倉唯ファンにも希望があるという点で、フェアなのではないかな。
そもそも愛情に序列をつけるな
客観的な指標ではどれも『愛の深さ』を測れない
前章で『愛の深さが重要視される世界』と書いたけれど、具体的にどうやって測ろう。
単純に思い浮かぶのは、どれだけCDを買ったかとか、何回イベントやライブに行ったかだろう。
しかし、その回数で序列を測るのもまた、ファン歴の長さと同じくらい価値が低いと思うよ。
というのも、この制度でもまた、小学生・幼稚園児のファンが不利になるからだ。あるいは、所得収入の低い人が土俵に立てなくなる。
さらに、もしCDの購入枚数で愛情が計測されるなら、大量にCDを購入し、応募券だけ抜き取って山に放棄した人はどうなるのだろうか。(声優ではないが、とあるアイドルのファンが似たようなことをして逮捕された事例もある)
あるいは、ZOZOの前澤友作社長が話題作りのために爆買いしたら彼は神になるのだろうか(前澤社長は心が永遠少年らしいから、ガチでファンになる可能性は十二分にあるけど)
これはやや極端な例かもしれないけれど、何が言いたいかというと、『ファン歴の長さ』『購入枚数』といった客観的な数字だけではファンの凄さは測れないということだ。
いや、そもそも論を言うと、同じファン同士で序列をつけ合うこと自体がおかしい。
多くの宗教で教えられていると思うけれど、神の前ではみな平等だ。
神の前で、序列なんて無に等しい。
その無に等しいと言える僅かな差を競い合うのはなしにして、純粋に神の歌声を聞き、涙しよう。
今回はここまでだよ。
とはいえ、本人の収入になるから、アルバムを買える人は買おうね(^●ω●^)