はい、どうも。ヤマダカワウソだよ。今日も頑張っていこう。
ブログの中には、書評とか、本のまとめだとか、とにかく本にかかわることを書いているブログを良く見かける。
例えば、知っている人でいえば、柿田ぴんとさんのブログがある。
この人は、数ある書籍の中でも特に自己啓発系の本の書評・まとめを書いている人で、2018年3月から開始して、11月の時点で200冊以上の書評をしている。
僕自身、自己啓発書(特に2010年以降のもの)は大量に読んだところでムダが多いと思っているから、こういった書評ブログで概略をつかむにとどめておいているよ。
名前は聞いたことある本、興味はあるけれど買おうかどうか迷っている本があれば、こういった書評ブログは大変役立つものとなる。
しかし、核が話からすると、この書評ブログというものは非常にきつい。
僕もいくつか書いているけれど、個人的には、自分の書いてきたブログのジャンルで、書評ブログが最も難しい部類に入る。
今回は、そんな書評ブログの難しさを考えていくよ。
読んだ本すべてを書評することはできない
肯定も否定もできない本ばかりだ
まず、僕個人として最も大変なのは、何を書評するかだ。
僕自身、読書数は平均よりは多いだろう(新刊を週2冊のペース、年単位では100~110冊程度)けれど、それでも、書評ブロガーの皆さんと比べると非常に少ないだろう。
というのも、書評に値しない本が世の中にはたくさんあるんだ。
これは、書評特化のブロガーさんとちがう観点で本を買っていることも起因しているんだろうけれど、「これはみんなに読んでほしい」と思ったような本、あるいは、書評のしやすい、「わかりやすいテーマの本」というのは、僕の買った50冊のうち1冊あるかどうか。そのくらいの割合だ。
つまり、1冊の本をきっちり読んで、それで適切に感想をブログに載せるためには、50冊くらいは、『これは書評を書く価値がないな』という本を読まなければいけない。
書評ブログの中の人は、実際に記事数の50倍の本を読んでいるのか、それとも、僕の何倍も多感なのか、あるいは、僕よりはるかに買う本を選ぶ能力が高いのかはわからないけれど、とにかく、少なくとも僕にとっては、書評すべき本を選ぶ時点で、もう大変なんだ。
内容を『正しく』まとめるのは極めて難しい
いざ書評すべき本を決めて、さあ書くぞとなった時、そこからもまた大変だ。
というのも、内容を間違えてはいけないからだ。
言葉を言い換えて言うならば、書いてあることを誇張や歪曲してはしてはいけない、ということだ。
選挙特番では、記者が政治家の発言を受けて「つまりこういうことですね。」といって、政治家の意図から少しそれたようなまとめをしていることが多々として起こる。
特に有名なジャーナリストほど、その傾向が強いという印象を受けるよ。誰とは言わないけれどね。
おそらく彼ら彼女らは、少しだけ発言をゆがめたまとめを意図的に行っているんだろうね。
オブラートに包んだ長くてまどろっこしい政治家の発言をまとめることで、視聴者のいわばセンセーションを刺激し、世間を誘導するようにしているのだろう。
もちろんこれは、政権に批判よりな人だけでなく、政権寄りの人にも当てはまることだ。
関連動画(?)
で、彼らがそういう歪曲なまとめをしたとしても、それが法律でとがめられるわけではない。
テレビやラジオでそういうのであれば、個人ブログで本をどうまとめようが、まあ罪にはならない(過度な誇張だと炎上するかもしれないけれど)
話を戻そう。
ジャーナリストの『まとめ』は意図的なものがあるだろうけれど、仮に自らの意図を伴わずにまとめようとすると、ここで問題が発生する。
まとめられないんだ。
作者の意図を、100%過不足なく入れてまとめるのは、ぶっちゃけ言うとそもそも論として不可能だ。
まとめようとすると、どうあがいても、『ここは省こう』とか、『ここはこう纏めよう』という主観が入る。
そうすると、客観的に書いたつもりでも、少なからず本文とは離れたものが入ることになる。
そういうものだと割り切ることができればいいけれど、僕の場合それができない。
だからこそ、書評は多くしないし、する時もなるべく多く引用を入れようとしている。
それでも完璧ではないんだけどね。
書評は感想だから、主観が入らない方がおかしいとも同時に思うけれど、そうなると内容が必ず『正しく』なくなる。
それが苦手な人にとっては、書評は難しいだろうね。
まとめると、
書評ブログを書くには、そもそも書評に値する本を選ばなくてはならず、そのために、書ける記事数の何十倍もの本が必要となる。
また、内容をまとめるとなるとどうしても主観が入らざるを得ず、この点が苦手な人にとっては書評ブログを書くのは難しい。
今回はここまでだよ。
書評は、書評のうまい人にさせるのが一番だね(^●ω●^)
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