はいどうも、カワウソだよ。
世の中には読書が好きな人がいる。
僕もそのうちの一人だけれど、そういう人の中には、多読こそ力、読書しない人は無教養だと主張する人もいる。
しかし、そう言った多読に異議を唱える人も多く存在する。
林望さんもそうだし、今回紹介する前田英樹さんもその一人だ。
彼らは、単に本を読まないというのではなく、乱読・多読の無意味さを訴えている。
今回は、そんな『読書の弊害』について、考えていこう。
読書を妄信してはいけない
書き言葉と話し言葉
『愛読の方法』では、書籍に限らず、書かれた言葉について、話し言葉と対比して批判している。
まず、話し言葉についてだけれど、著者はこれを、言葉というものの本来もつ性質を発揮するものだと書いている。
ソクラテスは言う。「正しきもの、美しきもの、善きものについての教えの言葉、学びのために語られる言葉、魂のほんとうの意味で書き込まれる言葉、ただそういう言葉の中にのみ、明瞭で、完全で、真剣な熱意に値するものがある」と。言葉が持つこの働きの方向を、いわば血筋において政党に受け継いでいるのは、書き言葉ではなく、話し言葉の方だ、彼はそう言いたいのである。
前田英樹 愛読の方法
話される言葉というものは、その人の魂や思いがこもっている一方で、書き言葉はそういったものを完全に表現することはできない。だからこそ、大切なモノを正しく受け止めることができないということなんだね。
偉人の文学批判
中島敦の文学批判
書き言葉への批判は別に著者だけのモノではない。著者は過去の偉人いくつか例を挙げている。
その一人が中島敦だ。
中島敦といえば、日本を代表する作家だね。文豪ストレイドッグスの主人公のモデルにもなっている。僕も彼の著書は好きだよ。
で、そんな中島敦の小説『文字禍』にはこのようなシーンがある。
ある書物狂の老人は、「(中略)およそ文字になった古代のことで、彼の知らぬことはない。彼はツクルチ・ニニブ一世王の治世何年目の何月何日の天候まで知って言う。しかし今日の天気は晴れか曇りか気がつかない。彼は、ギルガメッシュを慰めた言葉をもそらんじている。しかし息子をなくした隣人をなんといって慰めてよいか、知らない。」
前田英樹 愛読の方法
読書のその先に行ってしまい、文字情報をすべて覚えてしまった老人は、目の前の現実に対して考える能力を失ってしまった。
文字情報による論理とか情報を暗唱することはできるけれど、自ら考えることができなくなってしまったんだね。
中島敦は、書物に狂うことを、こういったストーリーによって皮肉っているんだね。
デカルトは本をほとんど読まなかった
中島敦だけではない。最大の哲学者デカルトも、書物による勉強の不完全さを説いている。
そういうわけで、先生たちの監督から抜け出せる年齢に達するとすぐ、私は書物による学問からすっかり離れた。そして、自分自身のなかにある、もしくは世間という大きな書物の中にある学問以外の学問は、もはや求めまいと決心した。
デカルト 方法序説
書物だけが勉強だけではない。自分自身の頭で考えることで、近代合理主義を体現できたんだね。
これは彼の時代に限ったことではないだろう。書物の量が多い現在もなお、書物をすべて読んだところで世の中がすべて知れるかというとそうではない。
書物だけに傾倒することの危険さに対しては、今なお注意しなくてはいけないね。
デカルトの記事はこちら!
「われ思う、故に我あり」って結局何なの? デカルトの『方法序説』を読んでみた
ショーペンハウエル『読書について』
世界一厳しい評論家として知られるのがショーペンハウエルだ。
そのショーペンハウエル、読書についてもこう批判している。
読書は、他人にモノを考えもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた論理を反復的にたどるに過ぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、物を考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事を辞めて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。だが読書にいそしむ限り、実は我々の頭は他人の思想の運動場に過ぎない。そのため、時にはぼんやりとじかんをつぶすことがあっても、ほとんどまるまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、次第に自分でものを考える力を失っていく。常に乗り物を使えば、ついにはあるくことを忘れる。しかしこれこそ大多数の学者の実情である。彼らは多読の結果、愚者となった人間である。
ショーペンハウエル 『読書について』
読書をしすぎることで、考える能力を失う。これは中島敦もデカルトも似たことを書いている。
読書を全くしないのもなんだけれど、読みすぎるのも問題のようだね。
多読より愛読
では、どうすればいいのか。全く本を読まない方がいいのかというと、そういうわけでもなさそうだ。
プラトンが、話し言葉がいいと言ったのは、話される言葉が生み出す時間、運動を直接見ている点だった。
ということは、逆に書き言葉においても、声に出して読めばそういった「魂のあらわれ」を感じ取ることができるということだ。
書かれる言葉にも、この現れを引き受ける独特のやり方がある。文字言葉だけに可能な変化や律動を、声なきままに、純粋に創るやり方がある。その言葉は、朗読して声にできるが、朗読があらわれさせることの可能な理済みは、すべて文章のなかにあり、読む人の心中で響いている。しかし、朗読のリズムは、読む人の中の心の奥で無限に響くリズムから引き出されている、可能なもののひとつでしかないだろう。ふたつのリズムは、別々のあり方をしていて、決してぴたりとひとつになることはない。
前田英樹 『愛読の方法』
いわば、文字情報というのは、魂が冷凍保存されたような状態で、黙読ではそのリズム・躍動を感じることはできない。
しかし、声に出してよむことで、著者の思い・魂を受け取れるということだね。
まとめると
・読書など文字情報は、その人の躍動をとらえることができない
・読書をしすぎては、自ら考える能力を失う
・朗読によって、著者の魂を読み取ることができる
というところだね。
今回はここまでだよ。
読書は大事だけれど、読書に飲み込まれないように注意しようね(^●ω●^)
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