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理屈っぽい人は論理力に乏しい人だという話。

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はいどうも、カワウソだよ。

 

 

さて、世の中には理屈ですべて片付けたがる人がいる。

俗にいう理屈っぽい人というやつだね。

一見、理屈とか理論とかが得意、端的に言って頭がいいように思えるし、彼ら自身もまたそういう自覚があるようだ。

 

というのも、理屈っぽい人の特徴として、話を聞かないプライドが高い自分が正しいと思っているということが挙げられている(参考サイト:理屈っぽい人の6つの特徴とは?

こういう性格は、よほど自信がなければあり得ない(逆に、自信がないからそういう虚勢を張っている可能性もあるが)

 

とはいえ、みんなうすうす気づいていると思うけれど、そういう人は、実は論理力に優れていないんだ。

少なくとも、理屈っぽい人が必ずしも頭がよいわけではないようだよ。

今回は、そんな理屈っぽさと論理的思考能力について考えていこう。

 

理屈っぽい人の理屈とは

理屈っぽい人は正論で討論する

そもそも、「理屈っぽい」とは何だろうか。

みんなのお金ドットコムの記事では、理屈っぽい男の特徴の一つとして、「常に正解を求めたがり、正論を語る」とある。

 

もちろん、議論の場においては、この正論を語る性格は非常に役に立つ。

しかし、理屈っぽいと呼ばれる人は、それが議論の場でない、例えばデートの時においてもこういう考えをしてしまう。

 

一般には理屈っぽいというのは女性より男性の方が多いといわれている。

このサイトでも「理屈っぽい人」ではなくて「理屈っぽい男」と書いているね。

とはいえ、理屈っぽい女性もいることにはいる。傾向として、高学歴な人は男性女性かかわらずそうだ。

(追記・訂正いたします。高学歴な人が理屈っぽいと書きましたが、正しくは、理屈っぽい人の中には高学歴な人もいる というのが私の意図でございます。訂正ならびに謝罪いたします。)

 

活動家のたかまつななさんもそういう一人で、例えばこういう理屈により、とあるテレビ番組にてコンビニの店員の挨拶ウザい論を展開している。

彼女の論理展開はこうだ。

『犯罪心理学的に、挨拶は万引きなどの犯罪を防止するのに効果的だ。したがって、私が店員にあいさつするのは私が万引きする可能性を示唆していることになる。よってあいつらのあいさつはウザい。』

 

彼女は大学・大学院で犯罪心理学を習っていると公言している。そこで得た知識によりこのような論理展開をしているね。

ぼくの経験的に、少なくとも日本では、理屈っぽい人の過半数は男性だけれど、アメリカなど海外だと、その比率は1対1に近づいていくだろうね。

 

以下、『理屈っぽい』の定義を、『正論を完全に正しいという考えのもと持論を展開する性格』として、なぜそのような考え・論理展開が正しくないかを説明していくよ。

 

理屈っぽい人は、正論が「正しい論」だと思っている

 

では、なぜ理屈っぽい人が理屈を信仰する原因を考えてみよう。

例えば、さっきのたかまつななさんの例で考えてみる。

犯罪心理学を勉強している人は少ないだろうが、挨拶をすると潜在的犯罪者が万引きをしにくくなるというのは直感的にも納得できる話であろう。

また、犯罪をだれがするかなんて、昆布にの店員さんが予測するのは難しい。すなわち、とりあえず全員、あるいは特定の行動をした人に集中的に挨拶をかけるというのはあり得る話だ。

まあ、論理としては悪くない。

でも、ココには問題が生じる。

それは、正論を「正しい論」「いかなる状態でも完全に効果を発揮する論」だと思っていることだ。

 

もし彼女の例でいえば、論理的に考えると、あいさつの代わりに、客に「万引きはお控えください」とでも言っても内容的には変わりがないということになる。

果たしてそれでいいのかと思ってしまうね。客観的に見ると、「いらっしゃいませ」のほうが、「万引きはやめてください」よりも何倍も気持ちいいと思うよ。

 

他の例をみてみよう。

Twitterで盛んになった自称フェミニスト・シュナムル氏のツイートだ。

 

もちろん、胸部のおおきい女性のラストに嫌悪感を抱く人がいるのは否定しない。かつてはそれにより、とある自治体のポスターが撤去される事例もあった。

批判受けた「のうりん!」と美濃加茂市コラボポスター、新デザインを掲出 「作品自体は適切なもの」と企画は続行

シュナムル氏もたかまつ氏も、意図してかしないでかはわからないが、Twitterで炎上するタイプだ。それは、彼・彼女が異論を受け付けないという態度で発信していることもその原因なのではないかな。(シュナムル氏のツイートの件はこちらでも取り上げているよ→ なぜリベラル活動家の主張はウザいのか )

しかし、そういう「正論」ならどういう表現でケチョンケチョンに言ってもいいかというと、そういうわけではない。

この2人の例から察すると、理屈っぽい人は自分が間違っていると思った相手や考えに対してはどれだけひどくいってもいいと思っている面があるようだね。

 

(追記)

いただきましたコメントを受け、当記事における『正論』には『自らの正義感に照らし合わせ自分が正しいと思っている主張』という意味合いをもつことを明示いたします。

 

なぜ理屈っぽい人の理屈は受け入れられないのか

正論なんていくらでもこねくりまわせる

さて、ではどうしてそういう理屈っぽい人の正論がなかなか受け入れられないのかかんがえてみよう。

その前に、この「正論」そのものについて考えてみよう。

はたして、本当のいみで『正論』は存在するのか? 

 

理屈っぽい人というのは、この答えに対してYESと答えるだろう。

意識しているかどうかはわからないが、唯一絶対的な『正論』があるということをもとにして話を進めている。

少なくともこの記事においては、理屈っぽい人の定義を『正論が完全に正しいと思って議論を進めていく人』としているから、そうでないとおかしい。

 

しかし、だからこそ、『絶対的に正しい意見』があると思っているからこそ、理屈っぽい人の主張には限界が存在するのではないかと思う。

 

僕は、唯一解としての正論はないと考えている。

少なくとも、たかまつなな氏やシュナムル氏の思っている意味での正論は存在しないと考えている。

 

シュナムル氏の例でみてみよう。

まず、「女性の性的表現により、不快な思いをする人がいる」。これは正しいだろう。事実、彼の娘さんは気持ち悪いと言っている(親を忖度したという可能性も高いけど)

しかし、逆に、ゾーニングやポリティカル・コレクトネスが過度にいきわたった世界もどうだろうか。

いわば、下ネタという概念が存在しない退屈な世界という感じだけれど、それもまた気持ちが悪い。

 

エロ本どころか、例えばアイドルの写真集の平積みもはばかられたり、それどころか、例えば男子同士の下ネタさえ禁止されたりするような世界もどうなのかと思う(もちろんはばかられるべきTPOは存在するが)。実際、アメリカでは『ロッカールーム・トーク』といって、いわゆるオフレコ的な会話が問題となった。

 

 

つまり、「ポリティカル・コレクトネスがいきすぎた世界も気持ち悪い」というのもまた正論なのではないかな。

そうなると、シュナムル氏の主張と僕の主張、両極端んお主張がともに『正論』になってしまいかねない。

 

どうも、唯一解としての正論は存在しない、少なくとも〇か×かといった二元論的な場所には存在しないのではないかと思うよ。

 

 

理屈っぽい人は考え方がよくない

極端なことを否定すればそれは正論になる。すなわち、まったく異なる意見の両方が、「正論」という武器によって理論武装可能ということになる。

ここで気づいた人も大勢出てきたのではないかな。

 

そう。正論による理論武装は、たいして価値がないものも存在する。

全部価値がないと書くとそれはそれで極端だけれど、でも、正論はえてして「極論の否定」であるとするならば、正論が何でもかんでも効力を発揮するとは言えないだろう。

逆に、こうした理屈っぽい人、正論を頼りに論理展開をする人はその点に気付いていない可能性がある。

となると、彼ら、理屈っぽい人たちは、正論の限界に気付いていないという点において、あたまが悪いと判断されざるを得ないのではないかな。

一言付け加えると、上で挙げたシュナムル氏は、正論の限界ついては自覚しているはずだと思うよ。

というのも、もしも正論がなんでもできると思っているならば、過激な表現で炎上まがいなことなんてしないだろうしね。

逆に、もしこの炎上が意図的なモノでないとするならば、正論からの論理展開でなんでもできると思っている頭の悪い人といことになってしまう。

学歴的に見ても、圧倒的フォロワー数からうかがえるカリスマ性から見ても、僕は彼が前者、すなわち正論の限界を自覚していてあえて炎上商法をしているタイプだと信じているよ。

 

本当に論理的な人は理屈っぽくならない

 

さて、ぼくはむしろ、論理思考力が得意な人は、むしろ理屈っぽくならないのではないかと思っているよ。

その理由は大きく二つある。

まず一つは、論理的思考力が平均以上の持ち主は、人間が必ずしも論理的な判断をする人間ではないことに気付いているから。というもの。

となると、論理的に正しい主張が必ずしも相手に伝わるかわからない。となれば、ある程度オブラートな表現をした方が、結果的に自分の主張が伝わりやすくなることもあるよね。

だとすれば、理屈っぽい言い方をすることはなくなる。ある程度以上の社会経験さえあれば、理屈ですべてがうまくいく世の中ではないことに気が付くだろう。

もう一つの理由は、世の中の主張はたいていメリットとデメリットの両方があることを自覚しているから

例えば、僕と同じINTP(論理学者)型、論理を大切にするタイプの上野瑚子さん(ミス慶応・MENSA会員・美人)は、MeToo運動に対してこういう意見を述べている。

#Metoo 運動そのものは別段悪いものではない。しかし、それが私刑につながるおそれも含めている。

かといって、#Metoo運動は危険だと言っているわけでもない。つまり、理屈っぽい主張をしていない。

彼女の例のように、本当に論理的思考をする人であれば、理屈っぽい考えによる主張なんてしてこないのではないかな。

 

 

理屈っぽい人の改善方法

『いろんな要素』を考えてみる

ここで、では理屈っぽい人はどうすれば理屈っぽさを改善することができるのかを考えていこう。

実は、その方法は極めてシンプルなんだ。

それは、『他の要素』を考えてみることだ。

 

どういうことなのか、上であげたたかまつななさんの例で考えてみよう。

たかまつさんの言う『コンビニのあいさつ、ウザい説』は、「あいさつには防犯効果がある」という情報から論が展開されている。

確かに、挨拶によって犯罪が防げるという効果はあるだろう。

しかし、本当にそれだけの理由で挨拶をしているのだろうか。

もしそうだとすれば、上でいったように、挨拶じゃなくても「万引きはお控えください」と直接言ってもいいはずだ。

 

しかし、どうもそれはちがうだろう。

それはなぜか。

挨拶が、防犯目的「だけ」ではないからだろう。

 

たしかに、『挨拶には防犯効果がある』→『だからコンビニ店員は客にあいさつをする』は論理的に正しい。

しかし、それだけではない。挨拶をした店の方が、そうでない店よりも多くの人にとって快適だからだろう。

 

防犯というのはあいさつをする理由の「一つ」ではあるだろうけれど、「すべて」ではない。

しかし、防犯が挨拶の理由のすべてだと認識すると、ちょっとおかしなことになってしまう。

 

理屈っぽい人の主張が何かおかしい原因はここにあるんじゃないかな。

「AならばB」が正しい場合、「Bの原因の一つはAだ」は正しい。しかし、一部の人は「AでBをすべて説明できる」と思ってしまう。

そこが、理屈っぽい人が陥りやすいトラップなのではないかと思うよ。

 

論理展開を進めていくこと自体はよいことだけれど、おおくの場合、1つの結果はいろんな原因が重なり合って生まれたものだということを認識しよう。

 

理屈っぽい人に関するまとめ

まとめると

理屈っぽい人は論理的で頭がいいようにふるまっているが、正論に頼りがちなその性格は、正論の限界に気付いていない、むしろ頭の悪い可能性が考えられる。十分な論理的思考力を持つ人であれば、一方的な論理を展開する「理屈っぽい人」になる可能性はむしろ低いと思われる。

今回は ここまでだよ。

あえて理屈っぽい記事にしてみたけれど、理屈っぽい人は嫌われるそうだからみんなは注意しようね(^●ω●^)

追記

 

コメント欄にて、私の言いたかったことから大きく異なったコメントをいただきましたので、この場において追記させていただきます。

まず初めに否定させていただきますが、私は以上に挙げました二人への学歴にコンプレックスは抱いておりません。

 

確かに、批判の対象として挙げた二人の学歴は名門とされる大学・大学院卒ですし、また、高学歴は理屈っぽい傾向があると書いていたこともまた事実です。

しかし、本来の意図は、高学歴の中にも理屈っぽい人はいる、このような表現がより適切かと判断し、訂正させていただきます。

この部分を中心にして、私の意図と大きく外れた読解をされた結果かと推測しております。改めて、謝罪をもうしあげます。

 

しかし、それにつきまして、私情・自らのコンプレックスからそのような記事を書いたというつもりは毛頭ございません。

もしもそのような意図で当記事を書いたのであれば、それこそ私自身がこの「理屈っぽい人」に当てはまることになります。

また、当文章を読みまして、私はIQが高いのを自慢しているという声も上がりました。

それに関しても否定をさせていただきます。詳しくは当ブログ記事

元メンサ会員だけど、高IQ団体に入るメリットはないと思っている

IQが高くても、メンサ会員になっても、メリットは少ない

などをご覧になっていただければと思います。

 

自らの経験をもとに、高IQのデメリットも書いていますので、それを読みましてから判断していただければと思います。

また、理想の女性像に固執しているという内容も同じコメントにてうかがわれましたが、その点においても否定しておきます。

ここで申し上げたかったのは、一方的な意見しか認めないのを理屈で固めて説明するという行為は論理的能力に乏しいのではないかということです

ここにおいて発言者の性別は全く関係ございませんし、私の性事情・家族との関係においても関係がありません。

私の意図と大きく異なるコメントを頂いたので、この場においてお詫び・訂正を表明いたします。

 

(2019.6.26追記)

この記事に対しまして、あたかも理屈っぽい人全員が、上で挙げましたような『極論の否定によりつくられる正論』を振りかざす人であり、そうでない人もいるので主張は正しくないという旨のコメントをいただきましたので、それに対しこの場で説明いたします。

確かに、正論にもさまざまあり、上で挙げました二人の例は、いわば頭の悪い理屈っぽい人がいる点しか述べていません。

しかしながら、同時に、どれだけ正論に見える主張であっても、そのただしさを完全に論理だけで説明することは多くの場合不可能であり、どのような主張でも、事例を極端にしてしまえば反論することは可能でしょう。結局、正論とうものは、見る人の感情によって判断されるところが少なからずあるかと思われます

その意味で、正論はいくらでもつくることはできると書いた次第であります。

たかまつなな氏、シュナムル氏の例を挙げたのは不適切なところはあったかと思いますが、私の主張自体は問題ないと考えています。

 

 

(2019.7.19追記)

当記事について『意味がわからない』というコメントを頂いたので、以下、より簡単に内容をまとめて書いていきます。

当記事では、理屈っぽい人のことを「正論を完全に正しいという考えのもと持論を展開する人」と定義しています。

 

しかし、正論とは本当に存在するのか、私は疑問に思います。

少なくとも、あるとしても賛成か反対かといった単純なところには存在しないと考えています。

というのも、極論を否定すればそれは多くの場合正しい主張になるからです。

 

例えば日米関係についてがその一例でしょう。

「アメリカのいうことに全部従うのは良くない。」これは正論だと言えるでしょう。

しかし、その正反対、「アメリカのいうことに全部反対するのも不都合が生ずる。」これもまた多くの人が賛同する、「正しい論」でしょう。

この2つの正論は、「アメリカにはすべて従うべきだ」「アメリカには全部反対だ」という二つの極端な正反対の主張を否定することで作られた『正論』です。

 

つまり、極論を否定することで、まったく別物の『正論』を作り出すことができる。

この意味で、私は『正論には限界がある』と書いているわけであります。

 

果たして、理屈っぽい人が、この正論の限界に気付いているかどうか。

どうも、世の中の『理屈っぽい人』はこの限界に気付いていないようだ

だから、その意味で、「理屈っぽい人は頭が悪い」と主張しているわけです。

 

(2019.8.23追記)

自分の中の勝手な定義に置き換えてA=Bとしているのは批判を浴びても仕方ないというコメントをいただきました。

これについて、いくつか反論させていただきます。

 

まず初めに、上記していますように、当記事でしました『理屈っぽい人』の定義は、当記事を書いたときに『理屈っぽい人』とGoogle検索して上位に表示されているサイトに載せられていたウェブページから引用したものです。

私としましては、その記事に書いている『理屈っぽい人』の定義をそのまま引用し、それを用いて以下記事を書きましたので、少なくとも私だけが定義したものではないことをご了承ください。

 

では、なぜこのようなコメントをいただくようになったのか。

あくまでも推測ではありますが、上記で挙げた例が極端すぎる例だったというのが主因かと思われます。

 

すなわち、シュナ氏、たかまつなな氏のツイートが極論であり、それを否定する形で私の主張を展開したので、おかしく見られたのではないかと思われます。

極端な例を挙げたことは主張の誤解を生む原因となりかねませんので、その点につきましては十分に反省をし、これからどう変えていくか考えてまいります。

 

わたしの言いたかったことは、

①理屈っぽい人は正論で語る(みんなのお金ドットコムより引用)

②しかしそもそも論として正論は存在しない

③正論が存在しないとすると、理屈っぽい人が語る正論は「極論の否定」に過ぎない

④正論が極論の否定に過ぎないとすれば、理屈っぽい人が頼る正論は不正確なものであり、そのことに気付いていないのは頭が悪い

 

ということであります。

 

また、私自身この記事においてシュナ・たかまつなな両氏の極論を否定することで主張を展開していますので、理屈っぽい人になります。

そこに反論を投げかけてくれることそのものが、「理屈っぽい人は頭が悪い」ことの証明なのだと思われます。

結果論かもしれませんが、理屈っぽく書いた当記事に様々な反論が投げかけれれること自体、当記事の不完全性を示すものであり、この記事自体が『理屈っぽい人は論理的思考力に乏しい』ことを示す一つの事例であると考えています。

 

(2019.12.14追記)

論理の飛躍があるというご指摘をいただきました。

正直なところ、私自身が論理的思考力を十分に持っておりその力をフル稼働させて当記事をかいたかというとそうではありません。

また、いくつか誤解を生みかねない表現をしたこともあり、その点は訂正いたします。

 

これもまた後付けみたいに聞こえますが(というか後付けなのですが)、理屈っぽい人の展開する論法は、この記事と同じくらい非論理的なのではないかと感じております。

実際の社会では、「AならばB『であることが多い』」というように、完全に一対一対応できないものが多くありますが、理屈っぽい人は、その部分を一対一対応させているきらいがある。

そのために、どうもおかしいのではないかと指摘しているまでであります。

 

 

 


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