1日目・宮城編はこちら。
2日目、福島県。今回の旅行で絶対に行っておきたかった、真実を知りたかった場所があります。
福島県浪江町です。
この地域は福島第一原発の事故で避難区域に指定されました。2017年より一部地域が指定解除されましたが、いまだに帰宅困難地域も存在します。
3.11後何度も報道されました。一部は速報ということもあって、数十秒あびるだけで死亡する量の放射線量だったというニュースも出ました。
この地域の人は避難を余儀なくされ、結果、飼育牛が街を闊歩するといった写真を見たひともいるかと思います。
しかし、東日本大震災から7年が過ぎ、浪江町の現状を報道するメディアが激減したことも事実です。
マスコミの仕方ないところでもありますが、事故からある程度時間が経ったらばったりとニュースを伝えなくなるのが、何とも悲しいことです。
もちろん、浪江町のホームページを見ればわかることもたくさんあります。しかし、やはり、全国紙・全国テレビ局が載せない限りには、多くの人は見向きもしないのが現実なのではないでしょうか。
今回は、実際に浪江町を歩いてわかったこと、感じたことを書き連ねていきます。
東日本大震災による震災孤児等への支援のための寄附口座 「東日本大震災ふくしまこども寄附金」について
福島県浪江町
浪江駅前
浪江駅前です。
3.11前年2010年はには、一日700人以上が利用する、大きな駅でした。
東日本大震災後、解除されてた現在は、18人だそうです。(Wikipediaより)
現在営業している駅の中では、最も福島第一原発に近い駅です。
というのも、隣の双葉駅が現在もなお運休中なのです。2020年3月、運転再開を予定しています。
駅前には、ソーラーパネルがありました。見ると、放射線量をはかっていたようです。(写真を撮ったものの、あとで確認したところうまく撮れていませんでした。カメラの都合で、肉眼では正常に見えてもカメラ越しだと点滅している画像しか映すことができませんでした。すみません。)
私が訪れたとき、0.219μSv/hでした。2017年5月時点では0.6μ㏜/hほど、2018年3月時点では0.242μSv/hだったそうなので、少しずつ除染されていることがわかります。
(参考URL https://hatebu.me/entry/2017/05/28/212705、https://kikuchidesu.hatenablog.com/entry/2018/03/06/231704)
駅前にはカフェオープンのお知らせが。遅々としていますが、復興のスピードはゼロではないことを物語っています。しかし7年半前のできごとが今なお引きずっていることもわかると思います。
駅から1時間ほど歩いてみました。
私が訪れたとき、駅前にはだれもいませんでした。いくつか車・トラックが走るだけです。
いたるところで見かけたのが、東北電力の看板です。
東京電力の文字は一つも見ていません。
これでも原発から10km以上離れているから当たり前かもしれませんが、なんとも不思議な感覚です。
現地で撮影した花。写真には写っていませんが、蝶も飛んでいました。なんという花なのかは、わかりません。
帰宅困難区域
駅から徒歩30分ほどのところに、帰宅困難区域の立て看板を発見しました。ここから先は行けないようです。あきらめて引き返しました。次来るときは、これより先を歩いていけることを期待しています。
あとで調べてみると、原発から11.3kmのところでした。ここから原発まで、直線距離で徒歩だと2時間20分ほどかかりますね。
あたりの様子
歩いていていくつか見かけたのは、「解体家屋」の張り紙がされた建物です。
解体の予定はされているようですが、実際に解体はされていません。
かといって、何も進展していないわけでもありません。
地震で崩れなかった、大型衣料店や結婚式場・パチンコ店などを拠点として、活動をしています。
写真は撮れていませんが、環境省と書かれたトラックがいくつも帰宅困難区域に入っていくのを見ました。
報道はされていませんが、復興活動を止めたわけでは決してありません。現在進行形で活動しているようです。
また、完全に無人というわけでもありません。仮設商店街やお弁当屋さんもありました。
ぽてと さんでガーリックライスとピリ辛野菜天(はんぺん)(200円)を購入。
おいしかったです。ごちそうさまでした。
今回実際行ってみてわかったことは
福島原発事故の復興作業は現在進行形であること。
過去のこと、過ぎ去ってしまったことでは決してないということです。
現在もなお避難している方が一刻も早く、元のまちへ戻れることを、強く願っています。
東日本大震災による震災孤児等への支援のための寄附口座 「東日本大震災ふくしまこども寄附金」について
英語版→What I saw 7 and half years after Tohoku Earthquake ~My Visit to Sendai and Fukushima~