旧1000円札でおなじみの文豪、夏目漱石。
その作品は国語の教科書のほとんどに載せられている。
近代の日本語を作った文豪の一人として知られていて、夏目漱石について、その生い立ちや性格・死因を知っている人は大勢いるだろうけど、では彼の作品を読んだことがあるかと聞かれると意外と少ないかもしれない。
読んでいるといっても、夢十夜、坊ちゃん、それから、草枕など、代表作をいくつか読んだことがあるという方が大半だとおもう。
ぼく自身、夏目漱石の作品は嫌いではないけれど、そういった代表作しか読んでいないよ。明治の文豪のなかでは森鴎外は好きだけど、それ以外の作家を愛読はしていないよ。
森鴎外や山本周五郎と比べると、夏目漱石の作品は癖がないように感じる。
逆に言えば、現代の標準的な日本語を作ったのが夏目漱石といえるだろう。
今回はそんな夏目漱石の「癖のなさ」を特に感じられる講演集『私の個人主義』について書いていくよ
仕事は「人のためにする」もの。
夏目漱石の文章には一般論というか、現代にも通じる意見が多い。
発表当時は異端だったかもしれないけれど、現代人が読むと、合理性と人間の感情とを考えると当然いきつくような考えが書かれている。
それは『私の個人主義』にも書かれている。
その一つが、人のために仕事をしないと自分にも得にならないということ。
己のためにする仕事の分量は人のためにする仕事の分量と同じであるという方程式が立つというのであります。人のためにする分量すなわち己のためにする分量であるから、人のためにする分量がすくなければ少ないほど自分のためにはならない結果を生ずるのは自然の理であります。これに反して人のためになる仕事を余計すればするほど、それだけ己のためになるのもまた明かな因縁であります。 私の個人主義
また同時に、「遊んでいる人は怠けているのではない」ということでもある。
遊んでいるように見えるのは、懐にある金が働いているからのことで、その金というものは人のためにすることなしにただ遊んでできたものではない。 私の個人主義
格差が広がる現代では一概に言えないところもあるけれど、遊ぶためにはどこかからお金をもらわなければならない。そして、そのお金とは仕事によるものであり、そして仕事は人のためにする。
といっても、別に漱石は高尚なことを言っているわけではなくて、この「人のため」というのは、単に人のご機嫌を取るという程度の意味合いだとも言っているよ。
忖度や機嫌取りが仕事に必要というのは、どの時代も変わらないんだね。
怠けたい気持ちが文化を発展させる
Googleで「仕事」と検索すると「仕事 つらい」という予測が出る。
エコノミックアニマルはこういった感情を怠惰とか甘えだとか思うかもしれない。「最近の若いもんはなっとらん!」と思うひともいるかもしれない。
しかし、明治の文豪夏目漱石は、「仕事つらい」って言っている現代人を高く評価しているようだ。
『私の個人主義』ではこうある。
義務の刺戟に対する反応としての消極的な活力節約とまた道楽の刺戟に対する反応としての積極的な活力消耗とが互いに並び進んで、こんがらがって変化していって、この複雑極まりなき開化というものができるのだと私は考えています。 私の個人主義
簡単に言えば、義務的な仕事はなるべくしたくない、でも遊びは思いっきりしたいという気持ちこそ、文明開化に必要だったといっているよ。
僅かな時間に、なるべく楽して多くのことをしようとする。その気持ちがなければ産業革命はおきていなかっただろうし、自動車どころか整備された道さえなかったかもしれない。
さらには、より刺激を得たいという思いが、ゲーム会社や食品会社を作り、日本経済を発展させた。
今の日本は転落途上国といわれているそうだけれど、なるべく仕事を怠けようとする現代のゆとり・さとり世代こそ、日本を活性化させるのではないかな。
優劣をつけたがるのは素人の証
世の中にはとやかく優劣をつけたがる人がいる。そういう人はたいていシンプルな合理化によって結論付けるのが好きな人達だね。最近はそういう人達が目立ってきている。
「東京より地方がいい」と書いてお金をもうけたブロガーから、「仮想通貨やってない人はやってる人より時代遅れ」と言って話題になったけど結局失敗した人まで、いっぱいいる。
しかし夏目漱石は、そういうランク付けを「素人のやること」と一笑している。
すべて政治家なり文学者なりあるいは実業家なりを比較する場合に誰より誰の方が偉いとか優っているとかいって、一概に上下の区別を立てようとするのはたいていの場合においてその道に暗い素人のやることであります。専門の智識が豊かで事情が精しくわかっていると、そう手短に纏めた批評を頭の中に貯えて安心する必要もなく、また批評をしようとすれば複雑な関係が頭に明瞭に出てくるから中々「甲より乙が偉い」という簡潔な形式によって判断が浮かんでこないのであります。 私の個人主義
AよりもBが偉いとか、そう単純に判断できるのは、その道の素人がやることだ。
専門的な知識があると、いろいろな知識が頭に出てくるから、そんな単純な評価はできなくなる。
世の中を批評しテイル人は、夏目漱石のこの言葉を頭に入れておこう。
理想でなく現実的な道徳に生きよう
アメリカのトランプ大統領は現実主義として知られている。
「そらエルサレムは宗教的にも複雑だけどよ、実際のところみんなテルアビブよりエルサレムの方が首都だって認識しているだろ?」
という考えで、イスラエルの首都をエルサレムだと宣言したし、
「地球温暖化よりアメ車が売れない方が、わが国にとっては損失だ」
という考えのもと、パリ条約を離脱した。
トランプ大統領の方針にはそのデータ自体に問題があることもあるんだけど、夏目漱石によれば、実はこういう現実主義者の方が進歩的な考え方のようだ。
しからば維新後の道徳が維新前とどういう風に違ってきたかというと、(中略)その代り事実というものを土台にしてそれから道徳を作りあげつつ今日まで進んできたように思われる。 私の個人主義
江戸時代までの道徳は、理想論的なことが多かった。それが明治以降、「理想はそうだけどやっぱ無理なところは無理だよね」という方針に代わってきたという。
これは現代の倫理観の変化にも言えることだ。
ぼくが小学生のころ「みんなを好きになろう」「みんな友達になろう」のような道徳標語があった。
でも実際の社会では、そういう考えは主流ではないね。
「嫌いな人を無理に好きになろうとすると余計にもつれるよね~」って意識が芽生えてくる。
理想と現実をちゃんと区別し、現実にもとづいた道徳をつくることが大事だと言っているよ。
夏目漱石の「個人主義」とは
個人主義というと、「自分のことだけ考えて生きていく」のような意味に思われるけれど、夏目漱石のいう個人主義はそうではない。
例えば、もし私が警察に気に食わないという理由で家を取り巻かせたらどうなるか、あるいは、三井や岩崎(三菱)が私を嫌うからという理由で私の召使を買収したらどうなるか、漱石はそういうことを考えている。
いくら相手が気に食わないからって、何でもしていいわけじゃない。
じゃあ、漱石のいう個人主義は何なのか。
それは、他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬するというもの。
他人は尊敬しなければならない。でもかといって、自分を犠牲にしすぎるのもよくない。
自己犠牲が善とされる文化もあるけれど、自分を大切にしつつ他人も大切にする、これが最善策のようだね。
今回はここまでだよ。
教養になるから読むことをお勧めするよ(^●ω●^)
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