はいどうも、カワウソだよ。
論破という言葉をよく聞くようになった。
論破とは、相手の主張に反論する行為のことだ。
これが上手いと、「あの人は頭が良い」と認識されることが多いだろう。
しかし、そのことを自分から意識すること、自ら「はい論破」と言ってしまうような人は正直なところ頭が悪い。
その典型的な例が、テレビ番組『スカッとジャパン』に出てくるイヤミ課長だ。
彼の口癖は「はい、論破」。
完全に悪役にも関わらず、その小者感がかえって人気だ。
イヤミ課長はフィクションの話だから人気が高いかもしれないかもしれない。しかし、実際の社会で「はい論破」と言ったり、あるいは反論して得意げになったりしている人は、たいていの場合人気はない。
もちろん、知らず知らずのうちに論破してしまうことは多くの人に当てはまると思う。
あるいは、論理的に質問していけば知らず知らずのうちに論破しているということになることもある。
しかし、「ああ、この瞬間私は相手を論破したんだ」とどや顔になったり、より顕著なケースでは「はい、論破」と言ったりすることは極めて頭の悪い行動だと思う。
今回は、その理由を書いていくよ。
「はい論破」は論破なのか
そもそも論破とは
そもそも、論破とはなんだろう。
広辞苑にはこう書いているよ。
議論して、他人の説を破ること。いい負かすこと
論破とは、議論をして相手を打ち負かすことを言うんだね。
ここから考えていくと、イヤミ課長とか、彼でなくとも一般的に認識されている『論破』が、本当の意味での論破ではない可能性が浮上してくるね。
一般的に言われている『論破』は論破ではない
論破とは、議論において相手を言いまかすこと。
この辞書的な意味を考えると、どうも日常的に使われる『論破』の中に、論破ではないケースがふくまれることになる。
Googleで「はい論破」と調べると、トップにのっている記事が下の記事だったよ。
この記事において『論破』として紹介されているツイートは、それぞれ個人のツイートでしかない。すなわち、実際にツイッターで議論しているわけではなく、勝手につぶやいているものでしかない。
そうなると、言葉の定義上、これは論破とは言えない。
あるいはイヤミ課長にしても、議論ではない場所で「はい、論破」を使っていることがあるから、言葉の使い方としては正確ではないようだね。
論破とはあくまでも、議論において相手を打ち負かすことだ。
論破とは何かを一度落ち着いて考えたうえで、『論破』がいかに無益なものかを考えていこう。
「はい論破」は議論で使えるのか
簡単に論破できる議論は程度が低い
さて、では議論における論破を見ていこう。
ニコニコ大百科を参考にすれば、意見の衝突の際、どこがどう間違っているのかを指摘するのが論破の本質のようだね。
この定義にしたがって考えてみよう。
そうなると、論破できる、少なくとも簡単に論破できるような相手には、論理の組み立てに明白な間違いがあるということなんじゃないかな。
そんな相手と議論したところで程度の低い議論になりそうだけれど、意外にもそういうのが当てはまりかねない事象がある。
それが「経験」だ。
もちろん、経験というのはすごく大事なことで、論理的に行き詰まったときにたよりにすべきものだ。
しかし、論理的に考えて明らかに非効率なのに「経験」のせいで変革できないケースを目にするよ。
「この方法で成功していた。だからこれからもできるだろう」というのは多くの日本企業が抱える病気だ。
そういう経験に基づいた議論では、データを集めれば論破可能だ。
誰かが簡単に論破できるような議論は、そもそも程度があまり高くないというわけだ。そういう場面で論破したところで、自分自身がとりわけて賢いというわけではないのではないかな。
論破で鬼の首を取ったかのようになる人は頭が悪い
さて、論破できる議論のレベルが低いことをわきまえたうえで、じゃあ「はい、論破」って自分から言ってくる人についてはどうなのか考えてみよう。
復習すると、論破可能な主張というのは、論理的な欠陥がある意見ということだ。
つまり、本来論破するのであればその欠陥を指摘すればいいだけの話だね。
ということは、本当に論破するならば、わざわざ「はい、論破」なんていわなくても矛盾点を相手や聴衆に指摘できているはずだよね。
となると、「はい論破」というのは二度手間ということになる。非常に頭の悪い行為のように見えるよ。
あるいは、あたかも必殺技かのように相手を論破しようとする人も、また頭がよろしくない。
というのも、「これで終わりだ」的な反論は実際のところ不可能なんだ。
論理的には正しい主張であっても、相手が論理的にすかした主張をしてきたり、データ懐疑論者だったりしたら意味ないからだ。
2018年の流行語に「ご飯論法」というのがあった。
ある大学教授が、安倍総理の加計学園問題に関する説明を揶揄したものだ。
食事したかどうかを知りたくて「ご飯食べた?」と聞いて、「ご飯は食べていない」と返答される。しかし、実際相手はうどんを食べていて、その意味で「(パンやうどんではなく)ご飯は食べていない」と答えた。
このような、言葉のあやを利用した「ご飯論法」を相手に使われると、まっとうな質問をしても意味がなくなる。
論理的正しさではなく、「なんとなく」でどちらが正しいかを判断する人は多いから、「これがとどめだ!」と論破しようとすると、逆に窮地に立たされてしまう。
あるいは、「そのデータが本当だといえるのか」と反論されると、むしろその正しさを論理的に言えるケースの方が少ないのではないかな。
このように、『そもそも同じ土俵に立たない人』を論破しようとするのは実際のところ無理な話じゃないのかな。
論破してなんの得があるのか
論破で議論は進まない
上では、論理的な点だけでなく、心情的なところも踏まえて論破することが事実上不可能だということを説明した。
以下、実際論破したところで何にもならないということを説明していくよ。
もちろん、論理やデータの矛盾を指摘すること自体には意味がある。論破とはそのためにあるものだし、それをしない議論は議論として成り立たないだろう。
でも、「相手を打ち負かす」には何の意味があるんだろう?
先述したように、論破とは打ち負かすということだ。辞書的には間違いを指摘することでしかないが、多くの場合、論破という言葉に『打ち負かす』というニュアンスがふくまれているんじゃないかな。
では、論破によって相手を打ち負かしたところで議論は深まるだろうか?
僕は、そうは思わない。あくまで心理的な効果になってしまうけれど、打ち負けた相手がこれ以上まともな反論をするだろうか?
論破された以上に警戒して、何も言わなくなるなんじゃないかな。
こちらのサイトで論破する方法のその1に「矛盾点を集中的に指摘する」と書いてあるけれど、では過剰に指摘すれば物事の解決に向かうだろうか?
【論破したところで相手は動いてくれない】 pic.twitter.com/ClQH49tqFP
— なうちまたん(替え歌見てねん)⚠️ (@nowchimachan) 2018年5月16日
論破とは少し異なるけれど、森友加計学園問題がよくわからないまま、ただ時間のムダになってしまった理由の一つがここにあるとおもうよ。
野党連合とされる政党の議員さんは森友加計問題を追及しているといっているけれど、その内容は
・特定の学園への贔屓があったのか
・官僚による文書書き換えはあったのか
・安倍総理(と昭恵さん)の関与があったかどうか
の3点だけなんじゃないかな。
そうじゃなくて、官僚のシステムに忖度を許してしまう欠陥があったのでは?とか、いろんなを考えなければ、安倍総理としても似たような答えをするしかなくなって、それ以上先へ進まないんじゃないかな。
論破したがる人も同じで、ひとつ矛盾点があったところでそこを徹底的に指摘すると、「相手を打ち負かす」ことはできたとしても、それ以上話が進まない。なんのための議論なんだということになるよね。
論破よりも、納得させたり、解決したりする
そもそもなんのために議論するなかを考えると、テレビ討論はべつとして、何かを進展させることが目的の一つじゃないかと思うよ。
こちらの記事にもあるけれど、議論がうまい人は、議論を勝ち負けではなく、より良いアイディアを出すためにしている。
こっちと相手のどちらがいい意見かではなくて、一番いい意見は何なのかを探る。
そういう議論をした方が、相手も納得しやすいし、もしくは論破なんかよりも大きく前進するんじゃないかな。
今回は以上だよ。
ぼくも、論破じゃなくて解決を目的とする記事を作っていきたいよ(^●ω●^)
追記(2019.12.27)
内容の間違いを指摘する旨のコメントをいただきました。
『論破できる内容は論理的な間違いが明白であり、程度が低いモノ』というのが間違いで、論理構造の矛盾や瑕疵が不明瞭なものに対して話し合うことでより明確にし、そのうえで間違いを指摘することであるので程度の低いものではない
とのことです。
これに対して補足させていただきます。
私はこの記事で『少なくとも簡単に』論破可能なものは程度が低いと書いています。
ここでいう『簡単に』とは指摘する側にとって論理構造の瑕疵や事実誤認が明らかであるということを想定しています。
もともと曖昧な部分があり瑕疵が不明瞭な理論に関しては想定していません。
改善策としまして、簡単に論破できる場合のみ想定している旨をより強調いたしてまいります。