以前、『学問としての政治』をとりあつかったけれど、マックス・ヴェーバーにはほかにも名著があるよ。
森友問題を「職業としての政治」を読みながら見てみるーマックスヴェーバー 職業としての政治
その一つが今回紹介する、職業としての学問だよ。
ドイツ語だとWissenschaft als Beruf、英語だとScience as a Vocationで、逐語訳すれば「天職としての科学」だね。
科学というと、普通自然科学を思い浮かべるけれど、著書には神学についても書かれてあるから、「学問」と訳して正解だったと思うよ。
実は、この元となる講演は1917年、職業としての政治に関する講演(1919年)よりも前に、大学生に向けられた講演だよ。
この本をもとに、学生、そして講師は学問に対してどのように立ち向かえばいいか考えていこう。
学問の世界は『偶然』に支配される
教授になれるかどうかは『偶然』次第
まずヴェーバーは、ヴェーバー自身が教鞭をとるドイツの大学とアメリカの大学との違いをいくつか示しているよ。
たとえば、ドイツで学問に携わると金権主義的に、アメリカでは官僚主義的になる。
ドイツの大学で研究しようとすれば、まず初めに「私講師」からなる必要がある。これは学生からの聴講料のみが生計のすべということだ。授業数が少ない一方で、研究に生を出せるという強みがある。
一方アメリカの大学では、「助手」からスタートする。これは有給で、請け負う仕事も多い。代わりに、自分のしたい研究に力を注げない。
さて、そんなドイツの私講師が正教授の地位につけるかは、成果には関係ないとうたっている。
私講師や研究所助手が他日正教授や研究所幹部となるためには、ただ僥倖を待つほかはないということである。この傾向は、むしろ従来以上であろう。それがまったくの偶然の支配下にあるということは、実際想像のほかである。おそらく、これほど偶然によってされる職歴はほかにないであろう -マックス・ヴェーバー 職業としての学問
教授になれるかどうかは偶然によるところがおおきい。
ヴェーバー自身、自分が大学教授になれたのも偶然だといい、同年輩で自分以上に適任な人がいるとも言っている。
他の職業に関しては、ヴェーバー自身が体験していないだろうからおそらく予想なんだろうけど、とにかく、大学でいい地位につこうと思ったら偶然を待つしかないんだね。
授業評価も『偶然』が支配する
さらにヴェーバーは、教師としての評判も偶然に支配されると考えているよ。
まず、教授サイドからすると、生徒からの評価というのは非常に重要だそう。
もしある講師が教師としてはダメだという評判をとったならば、たとえかれが世界第一の学者であったとしても、多くの場合、それは大学に職を奉ずるものとしては死刑の宣言を受けたに等しい -職業としての学問
東京大学は特にこの評価に重点が充てられていて、教授の評価番付があるそう。
しかし、ヴェーバーは、この生徒からの評判というのも偶然に支配されるといっている。
問題は、ある教師のところへばかり学生が集まるということの原因が、多くの場合、その人の気質だとか、または単なる声の調子だとかいうような、外面的な事柄にあるということである。 -職業としての学問
たしかに、例えば授業を評価するとき、ぼくたち学生は教授の学問的成果は考慮しないね。理系に限って言えば、優秀な講師ほど教授としての能力は低いようにも思うよ。
というのは、頭のいい講師ほど、字が汚かったり、あるいは配布資料の数式がわかりにくかったりする。頭の回転が速い人ほど、丁寧に解説しないというのが、僕が大学で得た経験知だよ。
つまり、教授の人気と、その人の学問的成果よりも、声の質といった生理的要素、あるいは雑談を挟むかなど、本質的じゃないところで決まるんだね。
閉じこもらなければ学問は完成しない
ヴェーバーは、『職業』として学問を営む教授や研究者の心構えについても語っている。
それは、閉じこもることの必要性だ。
こんにちなにか実際に学問上の仕事を完成したという誇りは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ得られるのである。これはたんに外的要件としてそうあるばかりではない。心構えのうえからいってもそうなのである。われわれも時折よることだが、およそ隣接領域を侵すような仕事には、一種のあきらめがひつようである。-職業としての学問
フェルマーの最終定理で有名なフェルマーのように、数学者と弁護士を掛け持ちしていたひともいたけれど、それは昔の話。
少なくとも学問という範囲においては、いろいろ手出しすると大成しないね。
本業以上に反政府活動で話題を呼んでいる科学者もいるみたいだけど、ヴェーバーの予測だと、そういう人は大成しないね。
ウェーバーの『学問の流儀』
学問の特徴とは
さて、ここで立ち止まって考えてみよう。
学問の特徴とは、なんだろう。
意外と難しいかもしれない。でも、例えば文学や宗教と学問とを比較すれば、答えを出せる人は出てくるかもしれない。
ヴェーバーは、まずこのようなたとえ話を語っている
そこで、ここにはただこういうばあいを問題にしよう。たとえば、ここにひとりの敬虔なカトリック教徒といまひとりのフリーメーソンとが、教会と国家の形態もしくは宗教史に関する同じ講義に出席していたとする。こうしたばあい、このふたりがそこで講義されることがらについて同じ大学に教鞭をとるものとしては、このふたりにとってかれの知識と方法が同様に役立つことを欲し、また進んでそのようにつとめなければならないのである。 -職業としての学問
中立性とか客観性とか言ってもいいと思うけれど、受講者の信念によって役立ち方が変わるのはよくないみたいだね。宗教や文学だとこうはいかない。ということは、これは学問の特徴といえるんじゃないかな。
そしてもう一つ、ヴェーバーは学問の特徴としてあげていることがある。
(中略)だが、ここで違うのは、宗教っ上の制約を斥けるという意味で「無前提な」学問の方では、「奇蹟」だとか「啓示」だとかについては、実際に何も知らないということである。 -職業としての学問
神学のような前提ありきの学問を除いて、奇蹟や啓示といったものは考えない、ないものとする。
たしかに、自然科学や社会科学ではその再現性が重要な要素となってくる。
この件はSTAP細胞問題で話題になったけれど、奇跡や啓示を認めてしまうとサイエンスが成り立たなくなってしまうね。
「無前提の」学問に関しては、そういった偶然を排除するのが特徴なんだね。
マックス・ヴェーバー流『学問のすゝめ』
さて最後に、ではこのような学問はどのようにやくだつかをみていこう。
ヴェーバー自身は学問を「それ自身のために」知る、すなわち、学問はそれを知るのが目的なところがあるといっている。
とはいえ、同時に実際生活に役立つ点も語っている。
この点でまず当然考えられてよいのは、技術、つまり実際生活においてどうすれば外界の事物や他人の行為を予測によって支配できるか、についての知識である。 -職業としての学問
これは問題ないね。その顕著なのは物理や数学だけど、学問を学べば物事が正しく予測できるね。
ただ、これだけでは野菜売りのやっていることに過ぎないとヴェーバーはいっている。そこで第2の利点だ。
すなわち、物事の考え方、およびそのための用具と訓練がそれである。 -職業としての学問
合理的に考えるすべを学んだり、あるいは歴史を学んで将来を予測したりと、事例の暗記ではない、正しい考え方の訓練として学問はあるんだね。
そして三つ目。
すなわち明確さというもことに諸君を導くことができる。 -職業としての学問
何かのトラブルに巻き込まれたとき、何がわかって何がわからない、そして何を知ることが必要で、どういう風に考えれば解決できるか、それがクリアにわかるのに、学問は必要なんだね。
以上、職業としての学問のまとめだよ。
ぼくのブログの読者の7~8割は10代20代だよ。その中には学生・生徒の人も大勢いるんじゃないかな。
ぜひ、学生のうちに呼んでおくことをお勧めするよ(^●ω●^)
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