はいどうも、カワウソだよ
われ思う、故に我あり
という言葉を聞いたことのある人は多いだろう。
受験で倫理を専攻した人はもちろんのこと、そうでない人もどこかで聞いたことがある。
デカルトといえば「われ思う、故に我あり」
「われ思う、故にわれあり」といえばデカルトだね。
でも、この意味が本当はどういう意味なのか、そして、この言葉が書かれた方法序説についてはどういう内容か知っている人はと聞かれると、なかなか人数が限られてくるんじゃないかな。
今回は、そんな「われ思う、故に我あり」を書いたデカルトの方法序説について読み解いていくよ
まず本に入る前に、方法序説の大まかな内容について解説をしておこう。
方法序説は、1637年、フランスの哲学者 ルネ・デカルトの著書。
本来は科学論文を寄せ集めた500ページの大作だったそうだけど、現在の方法序説は、そのなかの『序章』の部分にあたる6部が切り取られて出版されているよ。
そのうち、第5章は、医学に関すること(現在の医学は否定されている)、第6章はデカルトの執筆の経緯についてで、非本質的でないと判断し、ここで取り扱わないことにしたよ。
もし読みたいって人がいれば実際に読んでみてね。
以下、第1章から第4章についての記述内容をまとめていくよ。
書物に限界を感じたデカルト
意見が異なるのは相手がバカだからではない
さて、まずは第1章。主に二つのことに触れている。
一つは、話が分からないのは相手に理性がないからではないということ。
デカルトは方法序説の中でこう書いている
私たちの意見が分かれるのは、ある人が他人よりも理性があるということによるのではなく、ただ、わたしたちが思考を異なる道筋で導き、同一のことを考察してはいないことから生じるのである。というのも、良い精神を持っているだけでは十分ではなく、大切なのはそれを良く用いることだからだ。
-デカルト 方法序説
意見が分かれるというのは、別にどちらかが劣っているとかいうのではなくて、考え方やとらえ方が異なるからだということであって、当然のことなんだね。
現代社会にも、自分のいうことが理解されないと「なぜわからないんだ!」と血相を変えて言ったり、特定の政治や信条の支持者をバカ呼ばわりする人がいる。でも、相手がバカなのではなくって、そもそも考え方が違う、ということだね。
また、良い精神をもっているだけでは不十分であって、それをうまく使うことが大切だとも書いている。
ただ『いい人』でいるだけではなくて、その良い精神をうまく利用することでより価値が高まるんだね。
学問には限界がある
そしてもう一つ、デカルトが書いているのが、書物の限界だよ。
わたしは子供のころから文字による学問で養われてきた。そしてそれによって人生に有益なすべてのことについて明晰で確実な知識を獲得できると説き聞かされていたので、これを習得すべくこの上ない強い案某を持っていた。けれども、それを終了すれば学者の列に加えられる習わしとなっている学業の全過程を終えるや、わたしは全く意見を変えてしまった。というのは、多くの疑いと謝りに悩まされている自分に気が付き、勉学に勤めながらもますます自分の無知を知らされたという以外、何も得ることがなかったように思えたからだ。
デカルトは同時ヨーロッパでもっとも権威ある大学、いまでいうハーバード大学のようなところで学び、かつ授業だけでなく、錬金術のような秘伝的な学問を取り扱った本まで読み漁ったそうだよ。
そんな、最高の研究機関でいろいろなことに挑戦したにも拘わらず、得るものは何もなかったといい、「まだ自分を満足させる学説は存在しない」と考えるようになった。
もちろん、「学校で学んだものは全く意味がない」みたいなこと書いてドヤ顔で書店に並んでいる薄汚い自己啓発本と違って、デカルトはちゃんと学問の有用さを書いている。数学とか雄弁術など、学問ひとつひとつの利点を具体的にのべたのち、「その正しい価値を知り、欺かれないよう気を付けるためによいことである」と結論付けているよ。
つまり、勉強に意味がないんじゃなくって、まだ学問、少なくとも自分が知りたい学問はまだ完成していない、という意味のようだね。
常識を疑え
さて、デカルトは常識といわれるものにも欠点があると考えた。
この常識を疑うことが「われ思う、故に我あり」のもととなった。
デカルトは、各地の法律や都市建築を例にとって、いろんな人が寄り集まってできたものよりも、一人が作ったものの方が完成度が高いことを説いているよ。
スパルタが隆盛を極めたのは、その法律の一つ一つがよかったためではない。というのは、ひどく奇妙な法律や、良俗に反する法律さえも多かったからだ。そうではなく、それらの法律がただ一人によって創案され、そのすべてが同一の目的に向かっていたからである。また私はこう考えた。書物の学問、少なくともその論拠が蓋然的なだけでなんの証明もなく、多くの異なった人びとの意見が寄せ集められて、しだいにかさを増やしてきたような学問は、一人の良識ある人間が目の前にあることにるいて自然になしうる単純な推論ほどには、真理に接近できない、と。
そりゃ、寄せ集めの学問は複雑化したものだから、真理に接近していないじゃんという反論はあるけれど、たとえば現代物理学の二大柱のひとつである相対性理論なんかは、元となった理論はあるにしろ、アインシュタインというひとりの天才が編み出したもので、複数の科学者が作った量子力学と比べると一貫しているし、またその正しさも証明されているよ。
もちろん、国や法律を一人で全部変えようとすると独裁者が誕生しかねないけれど、思考においては、例えば多数決の原理に惑わされず、「自分で自分を導いて」行くことを選んだんだね。
では、自分でゼロから考えていく上で、どういう考え方をすればいいだろうか。デカルトは、その規則を4つ提示しているよ。
その1.明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないこと。
常識とされていることも、その正しさを証明できないならば正しいとは言えない、と考える、ということだね。
その2.検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。
よく「困難は分割せよ」というけれど、ただ分割するのではなく、「よりよく解く」ための部分に分割することが大事なんだね。
その3.わたしの思考を順序に従って導くこと
論理の基本だけれど、正しい順番に考えるということだね。
その4.すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、何も見落とさなかったと確信すること。
これは言うまでもないよね。ケアレスミスがないかチェックするということだ。
さて、その4箇条をもとにして思考実験をした結果、どのような結論に至ったのだろうか、みていこう。
意見の選び方
デカルトは3章において、ものの選び方について考えている。
まず、中庸を選ぶ。現代的に言えば、中立に近いかな。
一つには、あらゆる極端は悪いものが通例であり、穏健な意見は行うのにいつも一番都合がよく、おそらくは最善であるからだ。また一つには、穏健な意見に従えば、やり損ねた場合にも、両極端の一方を選んだあとにもう一方を取るべきだった、とわかるよりも、真の道からの隔たりが少なくて済むからだ。
極端はたいていの場合悪い。これは異論がでにくいね。
移民を完全に入国禁止にするのも倫理的な問題が起こるし、かといって全部受け入れるとまた不都合なことが起こりかねない。
そして、中道にいれば間違っても真からの隔たりが少ない。これはなかなか面白いかんがえかただね。中庸を選んだ場合、最適解でないにしろ、まったく離れているわけではない。
そしてもう2つ。最も蓋然性の高いものを選ぶ、つまり、一番確からしいものを選ぶ。
直感を信じろ、というと俗っぽく聞こえるけれど、あまり直感に反したものは真である可能性は低いということだね。
あと、運命よりもむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、常に努めること。
世界の法則よりも、自分の考えを変えるべきだということ。
『世界は変えられない、変わるのは常に自分だ。』
というと、何か自己啓発書のタイトルっぽく見えるけれど、これがデカルトの書物なのでより深いね。
なぜ『われ思う、故に我あり』なのか
われ思う、故に我あり
方法序説にある言葉の中で、日本人が知っている最も有名な語句。それが『われ思う、故に我あり』だね。
この発想にはどういう経路でいたったのだろうか。
以下、まとめると
・感覚はときに私を欺く。よって感覚で想像できるものはすべて偽とする
・推論も誤ることがある。よって推論で得られた結論も偽とする
・起きているときに抱く思考は寝ているときにも表れ得るが、真だとは限らない。よって偽である。
・こういう考えですべてを否定しても、こう考えている私は必然的に何ものかでなくてはならない。よって、『われ思う、故に我あり』
『目に見えないものしか信じない』という考えと真逆の思索を深めていった結果、『われ思う、故に我あり』という結論に達したんだね。
われ思う、故に神あり!?
さて、このように深い思想の結果気になる人がいるかもしれない。
デカルトは、神を否定できたのかと。
現代科学では、神と呼ばれる存在は確認されておらず、よって非科学的だと一蹴する人もいる。
でも、知の巨匠デカルトは、否定するどころか、神の存在をこの「われ思う、故に我あり」から示唆している。
どういうことか。
『われ思う、故に我あり』というのは、私が不完全だという前提に基づいている。ということは、私より完全な存在が存在するはずであり、私はそれに依存し、私の持つすべてはその完全なる存在から得たはずだ
これがデカルトの考えだよ。
デカルトはキリスト教の洗礼を受けていたけれど、この考えは特定の宗教への崇拝というわけではなく、不完全の証明のために完全なるものが存在する、という意味で神の存在を肯定したんだね。
確かに、例えば行為の善悪を測るとき、その善悪の基準はどこにあるかといえば、不完全な人間が決められるものではない、ならば完全なる基準があって、我々はそこから恩恵をもらっていると考えると、納得がいくね。
と、まあ、ここまでがデカルトの方法序説の大まかな内容だよ。
非常に合理的かつ思索的に真理をあらわしていて、6章までいれてもわずか103ページ。
わけわからない人が書いた啓発書を読むよりかは、真理をぎゅっと詰め込んだデカルトの方法序説を読んだ方がためになると、僕は思うよ。
今回はここまでだよ。
僕もデカルトほどでないにしろ、思索の海をさまよってみたいな(^●ω●^)
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