語彙力・ボキャブラリーの鍛錬を必死にする必要は全くない


はいどうも。ヤマダカワウソだよ。

今日も頑張っていこう。

 

近頃は語彙力ブームだね。

齋藤孝氏の をきっかけに、「語彙力がない大人は格好悪い」という節があるね。


すぐ使いこなせる知的な 大人の語彙1000

でも、果たして本当にそうだろうか?

僕は、少なくとも語彙力を伸ばす単語集のようなものを買う必要はないと思っているよ。

語彙力があることは本当にかっこいいか、考えてみよう。

 

1.より難しい単語は意味が推測可能

 

まず、端的なことをいうと、故事成語やことわざの意味は知らなくても問題ないことが多いよ。

いくつか例に出して考えてみよう。

 

泣いて馬謖を切る」という故事成語がある。

規律を守るために情状酌量をしないという意味だ。

 

例文を上げると

「育ててくれたとはいえ、泣いて馬謖を切るだ。僕は親父を訴える。」

これが、

「育ててくれたとはいえ、僕は親父を訴える。」

にしても、内容が減ることはないね。

 

あるいは、燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。小人には大人の志や意図は汲めないという意味だ。

「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんやだ、言いたいやつには言わせておけ」

これも、

「言いたいやつには言わせておけ」

にしたところで意味が大きく変わるわけではないよね。

故事成語やことわざは、教訓や現象を言い換えただけにすぎないね。

 

故事成語以外でも、、会話中で出てきた場合は知らなくても大丈夫だよ。

例えば次の文を見てみよう。

「AとBとは撞着している。もしAだと仮定したらBが成り立たないじゃないか。てことは、この二つは矛盾してないか?」

さて問題。撞着の意味は何だろう?

 

矛盾、という意味だと判断できるね。

もし撞着という意味がわからなくても、その先を聞けば「矛盾」って意味だってわかるね。

もちろん

「自己撞着だ!」

としか話さずあとはだんまりな人もいるけれど、一定の量以上話してくれる人なら、知らない単語が出ても意味が想像できる。

 

このことは、洋書を読んでいて気がついたよ。

洋書だと、

He is a nice and kind man.

のように、似た意味の単語を重ねて使うことがあるよ。

これは日本語でも同じだ。無意識のうちに、多くの人はいくつかの言葉を言い換えて、同じような意味の言葉を複数回使用している。

 

もし何かの語彙が引っかかったら、その都度フィーリングで取り繕って、あとでコトバンクで調べればいいんじゃないかな。

 

2.語彙力がなければ、新たに作ればいいじゃない

 

このタイトルを見て、

「いや、そんなマリーアントワネットみたいな発想!」と思った人もいるかもしれない。

 

実は、それがミソだ。

 

マリーアントワネット自体は、中学の歴史でも習うし、庶民の気持ちがわからない人の例えに使われるね。

それと同じ。

 

人物や企業には、そういうステレオタイプがある。

故事成語自体が、「燕雀=小さいもの」のようなステレオタイプから発生したものだから、現在の人物を使っても同じことだよね。

「嫌いな奴と組みたがらないって、トランプじゃないんだから。」

「そんな難しい問題、一瞬で解けるなんて藤井四段五段六段七段くらい」

「でっかいこと言っている割には中身が薄いな。山根前会長みたい。」

 

のように。

むしろこっちの方が、多くの人がイメージしやすいだろうし、いい印象を抱かれるかもしれないね。

教養というものはあえてひけらかすものではない。語彙力もその一つで、むしろほんのちょっとした時により適した表現をするためにあると考えている。

ビジネス用語を多用する人がむしろ薄っぺらに思えるのとおんなじだね。

 

むしろ、その人の頭の良さというのは、教養や知識をいかにうまく使うかにあるんじゃないかな。

例えば、三島由紀夫の金閣寺では、青の表現として、「硫酸銅のような青」という表現がある。

硫酸銅が青いというのは、高校化学を習った人であればだれも知っていることだけど、「これを使うか!」というのが三島の凄さだと考えている。

これと同じように、語彙力を鍛えるだけでなく、表現力の鍛錬も必要なんじゃないかな。

 

3.語彙力の客観性、表現力の主観性

僕は、高い語彙力は詰将棋と同じだと考えているよ。

 

詰将棋っていうのは、ある棋譜においてどうすれば最短で詰み、相手を負かすかを考える将棋パズルのことだよ。

でも、実際の将棋では、詰将棋のような棋譜になることはあまりないそうだよ。

ぼくも りゅうおうのおしごと! (GA文庫)で知ったんだけどね。


りゅうおうのおしごと! 雛鶴あい 1/7スケール PVC製 塗装済み完成品 フィギュア

 

 

 

つまり、状況が理想的すぎて現実的でないってこと。

語彙力がある人は、細かい描写をより客観的にできるよ。

 

逆に、大まかな描写を主観的に表現したいときは、レベルの低い語彙を使った方がいい場合もあるよ。

宮沢賢治の作品なんてそうだね。

よだかの星のよだかがどれだけ醜いかあらわすときに

『まるで顔に味噌をぬったような』

と書いているね。

どれだけ語彙力があっても、よだかの醜さをこれだけ伝えることはできないと思うよ。

 

このように、味噌のような低レベルな語彙をあえて使うことで、感覚に訴える程度は一層強まるよ。

 

こどもの表現力が豊かだといわれるのも、むしろ語彙力に乏しいからだと考えることができる。

語彙力がないと、客観よりも主観に訴えることになるんだね。

広告なんてそうでしょ。

お金で買えない価値がある

とか

いつやるか、今でしょ!

とか。

確かに高い語彙力をもっていたら正確に、客観的に表現はできるけれど、主観に訴えることは難しくなるんじゃないかな。

広辞苑に出てくる言葉を全部知ってても、その半分は一生使うことのないだろうね。

結論をいうと、

語彙力を備えていても、実用性はほとんどない。まして、苦労して語彙力を鍛える必要なゼロ。

というのが僕の考えだよ。

 

今回はここまでだよ。みんなも考えてみてね(^●ω●^)


Published by english-otter

早稲田大学先進理工学部生。英語とクイズ番組が好き。 社会問題も興味あり。計算も好き。要はたいがい好き。 好きな人は小倉唯。男性は伊沢拓司。 twitter @english_otter Naverなどまとめサイト・キュレーションサイトへの無断転載は禁止しておりますのでご了承ください

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